第136話.明かされる日


「ご、ごめんなさい将軍様。大丈夫ですか?」

「…………」


 俯いて人差し指を押さえる宇静から返事はない。相当痛かったのだろう。

 そんなに強く噛んだつもりはなかったが、まさか血が出ているのでは。青ざめる依依だったが、宇静はゆっくりと息を吐いている。


「……いい。平気だ」

「でも――むぎゅっ」


 唇に卵を押しつけられる。いいから食え、ということらしい。

 また、依依は口を動かす。静かな空間には、依依の咀嚼音だけが響いている。


「将軍様。どうして急に私に餌づけを?」


 ひとつの卵が食べ終わったところで、依依は訊ねてみた。

 依依の知る陸宇静は、部下をこのように甘やかす人ではない。もし涼や牛鳥豚がこの光景を目にしていたら、幻覚か何かかと怯えていたことだろう。


(拾い食いでもしたのかな)


 そう心配していたら、宇静がなぜか恨みがましい口調で言う。


「……お前が言ったんだろう」

「私、何か言いましたっけ」


 まったく心当たりがない。

 ごにょごにょと、小さな声で宇静が言う。


「疲れたときは、食べさせてほしいと思うとか、どうとか……言っていただろう」


 その答えに依依は仰天した。

 次いで真っ赤になる。まさか本心からの言葉だと誤解されていたとは。


「あ、あれは……っ、円淑妃の視線が怖かったから言っただけです!」


 狼狽えながらも理由を話せば、宇静が眉間に皺を寄せている。


「なら、俺がやったことは迷惑だったか」

「でも、ううん、その……わ、悪くはなかったですけど」


 身体だけでなく心ごと、甘やかされて、優しくされている感じがした。


「そうか。ならいい」


 今日の宇静は、なんだか夢幻のように穏やかである。

 今なら訊ける気がした。いや、今を逃したらもう無理なのだ。


 ごくりと唾を呑み込んだ依依は、その問いを放っていた。


「将軍様は、どうして私に口づけたんですか?」


 時間が止まったのかと錯覚するほど長く、宇静は沈黙した。

 ぴくりとも動かない彼が、思い出したように喉の奥で咳をする。そのとき、依依の肩も緊張からか震えてしまっていた。


「……覚えて、いたのか」

「いえ、違います! 皇帝陛下に教えてもらったんです」


 わたわたと依依は訂正する。

 毒で朦朧としていた依依は、男性に口づけられたことしか覚えていない。


(でも、今になって思い返すと、将軍様だわ)


 あの力強く逞しい腕は、やはり宇静のものだったのだろう。

 宇静はしばらく黙っていた。この話題を口にしたことを依依が悔やむほどの長い沈黙を経て、彼は口を開いていた。


「あのとき、本当は……兄のほうが、お前を助けたかったのだと思う」

「え?」

「お前は自覚していないのだろうが……鴆毒を嗅いだお前は、一気に死人のような顔色になった。目の焦点が合わず、立っていることもできなかった。俺も兄も、あのとき、お前が今すぐ死んでしまうと思ったんだ」


 自分では、じゅうぶんな余力があると思っていた。薬を差し出されたら、自分で飲むことくらいできるのに、と。


 だが実際は、本当に死んでしまいそうだったのだ、と宇静はどこか弱々しい声で言う。



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