第127話.ようやくの温泉宮


 からんからん、と棍棒を取り落とす音が響く。


「――はい、また私の勝ちね」


 手の中でくるくると棍棒を回し、華麗に操った依依は、そう宣言する。

 地面に尻をつき、呆然としていた鳥が、恐る恐る口を開いた。


「……大哥、ひとつ訊いてもいいすか」

「ん? なに?」

「大哥と無事再会できたのは、ほんとに、ほんとに嬉しいんすけど――なんで温泉宮に来てまで、おれら訓練してるんすか!?」


 そうだそうだ! と牛豚が追従する。

 ちなみに鳥の前に伸された彼らは、未だ地面に転がっている。そんな三人の顔を見て、依依は肩を竦めてみせた。


「あのね鳥。一日訓練をさぼるだけで、身体は鈍るのよ。取り戻すには三日かかるわ」

「鈍ってもいいんで遊んで暮らしたいっす」


 依依は鳥の頭に拳を落とした。大して力を込めていないのに、鳥は「いってー!」と絶叫し、地面を転げ回っている。


「訓練の辛さを知ってるくせに、阿呆なことを言うんじゃないの。一生、温泉宮で遊んで暮らせるわけじゃないんだから」

「それはそうっすけどー!」

「それにどんなに疲れても、温泉に浸かれば一発で回復するんだからいいじゃない」

「いやっ、温泉にそこまでの効能はないと思うんすけど」

「口答えしなーい! 一に訓練、二に訓練、三四五に訓練よ!」


 ひいいと悲鳴を上げる牛鳥豚を、依依は棍棒を手に追いかけ回す。


 ――それは依依が温泉宮に到着して、二日目の昼のことである。


 昨日は食事を終えて眠ってしまった依依だが、今日は清叉軍の訓練に合流していた。

 皇帝も淑妃も温泉宮に到着して万々歳といえども、それは訓練をさぼる理由にはならない。宇静も訓練に参加しているので、清叉軍全員が気を抜けずにいた。

 といっても、清叉軍の主な役割は温泉宮周辺の警護である。持ち回り制なので、できるのは空いた時間でこうして集まって棒を振り回すくらいだ。


 その代わり、夜は温泉に入り、豪勢な料理に舌鼓が打てるのである。

 依依に至っては小さな宮を貸し与えられて、自由に使っていいと言われている。宇静に次ぐ扱いの良さだ。


「せっかくなら灼家の皆さんも残って、訓練相手になってくれたら良かったのにね……」


 依依にとって、その点は残念でならなかった。だが致し方ないとも言える。彼らは先に宮城に戻り、襲撃者たちを牢に入れる役目を買って出てくれたのだ。


(いつか雄様と手合わせできる機会があるといいんだけど)


 作った貸しは、もはやそのために使うべきだろうか、とか考えてしまう依依だが、首を横に振る。これは切り札として取っておくべき手である。


「そういえば涼。円淑妃って、あのあと大丈夫だった?」


 山で別れて以来、依依は深玉に会っていない。

 元気で過ごしているならいいのだが、足を怪我してしまったし、温室育ちの淑妃にとって辛いことだらけだったはずだ。思い返すと、わりと元気だった気もするが……。


「ああ。それなら温泉宮に着くなり淑妃の女官が、ひどい、あんまりだ、って泣き出しちゃって大変だったんだ」

「そっか……」


(自分を庇って、主が馬車から転落しちゃったんだものね)


 子桐は気が気でなかっただろう。深玉は彼女の命の恩人だが、それこそ何かが違っていたら深玉は命を落としていたのだ。無謀な真似をした主を責めたくなる気持ちは、依依にも分かる気がした。


「そうなんだよ。『私も楊くんと一緒に過ごしたかったのに、淑妃ばっかりひどいー!』って、わんわん泣いちゃって」

「――えっ、そこ!?」


 思いがけないところが怒りの焦点だった。


「あれには淑妃も度肝を抜かれてたよ」


 そりゃそうだ。まさかそんな理由で責め立てられるとは夢にも思わなかっただろう。

 思い出し笑いをしていた涼は、気を取り直すように言う。


「最終的にはごめんなさい、感謝してます、って泣きついてたけどな。淑妃はやれやれって感じで抱き留めてあげてた。びっくりするくらい、優しい顔してな」

「そんなことがあったのね」


 そのやり取りを聞いていた鳥が、にやりと笑って涼を小突く。


「好青年。あのときお前、円淑妃のこと抱きかかえてたよなぁ。皇帝陛下の妃に手を出すなんて、反逆罪だぞ。国家転覆罪で捕まるぞー」


 鳥は知っている単語を駆使して、涼を揶揄している。


「あれは、緊急事態だから仕方なくて」


 涼は真っ赤な顔で否定する。珍しく焦っているようで、鳥にからかわれていると気がついていないようだ。


「い、依依。やっぱり淑妃にはいやがられたのかな。俺、まずいことしたかも」

「うーん、そうね……」


 その言葉に、依依は昨日のことを思い出す。


 作戦を決めたあと、依依は衣を借りるために深玉を追った。涼が馬を連れてくるのを待っていた深玉は、確かこんなことを言ってきたのだ――。



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