第117話.帰るべき場所


 夜闇の中、純花が立っている。

 依依はそれを、離れたところから眺めている。


 灼夏宮の庭によく似た場所だが、細部が少し違っているようだ。他の妃の宮なのかもしれない。

 純花はそこで、まんまるの月を見上げてぼんやりしている。

 月見をしているのだろうか。見守っていた依依は、そこではっとする。

 赤銅色の瞳から、ほろりと、一筋の涙がこぼれ落ちていたからだ。


(純花、どうしたの?)


 慌てて声をかけようとしても、喉の奥からは何も音がしない。

 ようやく依依は気がついた。


(ああ、これは……夢なんだわ)


 近づけないし、呼びかけられない。依依にできるのは、声もなく泣いている純花を遠目に眺めることだけである。


 純花の瞳は、涙を流すたび痛々しく腫れていく。

 純花を泣かせたくない。泣くならば、せめて、依依の腕の中で泣いてほしいと思う。


(大丈夫よ、純花。私、必ず帰るから――)


 きっと待ってて、と、依依は声にならない声を振り絞り、叫ぶ。




「純花ー!」

「きゃああっ」


 がばりと跳ね起きた依依の耳奥で、自分の声と深玉の声とがぐわんぐわん反響する。

 健やかとは言いがたい目覚めである。近くで休んでいたらしい深玉が、自身の身体を抱きしめるようにして固まっているのを見て、外套を脱いだ依依は平謝りした。


「ご、ごめんなさい円淑妃。ちょっと夢を見てまして」

「び、びっくりしたぁ。どういう寝言よ、灼賢妃の名前を大声で叫ぶとか……」


 痛いところを突かれて、依依はぎくりとする。


(ど、どうやって言い逃れよう)


 そのやり取りが聞こえてか、洞窟の外から飛傑が顔を出す。

 先に起きていたらしい。彼は顔色ひとつに変えず言ってみせた。


「純花というのは、確かそなたの故郷で親しまれていた郷土料理の名前だったな。前に話してくれたのを覚えている」

「えっ……は、はい。そうなんです。すごくおいしいんですよ」


 とりあえず乗っかることにして、依依はこくこくと頷いた。だいぶ無理のある嘘だったが、飛傑が堂々としているせいか、深玉は騙されてくれたようだ。


「楊依依、もう朝だぞ。先に顔を洗ってこい」

「分かりました」


(ありがとう陛下!)


 その場から逃れた依依は、布巾を手に早足で川へと向かう。


「それにしても私としたことが、朝まで爆睡しちゃうなんて……」


 自分で思っていた以上に疲れていたのだろう。その分、今日はきっちり働かねば。

 朝霧が立ち込める中、川まで下りていく。依依の気配に気がつくと、小魚は岩陰に散るように逃げていった。


 ざぶざぶと、冷たい水で顔を洗っているうちに眠気が取れたようだ。

 濡れた顔を拭っていると、まるで依依を誘惑するかのように、風上から食欲を刺激する香りが漂ってきた。


「いいにおい……」


 すんすん、と鼻を動かして、依依はその香りにつられるようにして両足を動かす。

 依依が昨日作った石かまどで、埋み火を掻き起こしていたのは宇静である。先ほど真横を通ったはずが、彼に気づかないほど依依は焦っていたようだ。


「将軍様?」

「昨夜の残りだが、朝餉を準備している。少し待っていろ」

「はい!」


 朝餉と言われた依依はしゃっきりとした返事をした。

 適当な石に腰かけて、お腹を鳴らしながら待つ。やがて差し出されたのは、松茸入りの汁物であった。


「食え」

「いただきますっ!」


 笹の皿ごと舐めるような破竹の勢いで、依依は汁物を飲んだ。


「お、おいしいい……」


 依依の目に、じわりと感動の涙がにじむ。

 調味料がないので薄味だ。しかし、より素材の旨味が染み出ているともいえる。どこか若晴との暮らしを彷彿とさせるような、素朴な味わいの汁物である。


「お代わりは」

「お願いします!」


 宇静はたっぷりと盛ってくれた。というのも他の三人は、すでに食事を終えていたのだ。


「将軍様、料理もできるんですね」

「料理というほどのことではない。湯にきのこを入れただけだ」

「それじゃあ、湯にきのこを入れる達人ですね!」


 依依は宇静を褒めたたえた。最終的に七杯食べた。正しくは、八杯目がなかったともいえる。

 薬草茶を飲み人心地ついた依依は、向かいで茶を啜る宇静に話しかけた。


「今日中には、温泉宮に辿り着けるでしょうか」

「そうだな。淑妃の体力は心配だが……なんとかなるだろう」


 頷いた依依は、小声で言う。


「私、ここにいて良かったんでしょうか」

「何が言いたい?」


 なぜか宇静はしらばっくれる。依依はふくれ面になる。


「だって私、奴らの間諜かもしれないじゃないですか」


 一瞬、宇静は真顔になった。

 それから、ふっと小さく噴き出す。


「ちょ……なんで笑うんですかっ」

「そんな可能性は、最初から考慮していないからだ」


 宇静はそう言ってのけるが、そんなはずはないと依依は思う。


「でもあいつらは、灼家の――」

「灼家? どういうこと?」


 ……しまった。

 今さらになって口を噤むが、時既に遅し。

 深玉は爛々と輝く目で依依を睨んでいる。依依の話が耳に入ったからだろう。

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