第113話.木登り小猿
これで目の前に温泉宮が待ち構えていたりしたら、何も言うことはなかったのだが、残念ながら万事がうまくいくはずはない。
洞窟を抜けた先に待っていたのは、連なる山々――そのひとつの山の、中腹であるようだった。
ただ、それがどのあたりなのかは分からない。そこで依依はまず提案した。
「私、木に登って周辺の景色を見てきます!」
目的は、温泉宮のあるだいたいの方角を掴むことだ。立派な離宮だというから、屋根か飾りのひとつでも見えてくれればじゅうぶんである。
それに深玉には疲労が色濃く見える。依依が木登りする間は休めるし、進むべき方角が分かればまた歩く気力も湧いてくるだろう。
「それは助かるが、くれぐれも気をつけろ」
「木登りは得意です。お任せください!」
そう返せば、飛傑が「そうだったな」と微笑む。
春の出来事だ。桜を見ていた飛傑の前に、依依は勢いよく降ってきたことがあった。彼もそのときのことを思い出したのだろう。
「だが、それだけではない。枝葉から水滴が降ってきそうだ」
飛傑の言う通りだった。
数日前に雨が降ったのだろう。空気が湿っているだけでなく、ところどころ地面がぬかるんでいる。木登りすればびしょ濡れになるだろうし、手が滑れば命取りになりかねない。
「じゅうぶん気をつけます」
無理はしない、と依依は真面目な顔で伝えた。
依依はさっそく周辺を見回して、一帯で最も高い木に当たりをつけた。舌なめずりをしたのは、それが辺境の山々に生えていた木に比べてもずっと立派な巨木だったからだ。
おおよそ、七十尺といったところだろうか。依依十四人分くらいの高さだ。
(相手にとって不足なしよ!)
「あ、あんなに高い木に登るの? もし落ちたら……」
「淑妃、ご心配なく」
伊達に故郷で小猿などと呼ばれていない。
青い顔をした深玉に笑顔を返した依依は、低い枝に手をかける。
そこからは身軽に駆け上がっていく。ひょいひょいひょい、と見る間に手の届かない位置に到達してしまう依依に、深玉はかなり驚いたようだ。「まぁ……」と見上げた姿勢で、口を半開きにして固まっている。
木登りにはこつがある。いわゆる三点支持だ。
両手両足のうち、必ず三肢で体重を支える。自由に動かすのを一肢に絞ると身体が安定するので、滅多なことでは落下しない。この方法は岩壁を登るにも有効である。
ただ依依の動きは玄人のそれなので、彼女の手足がどう動いているのか、地上から正確に目で追うのは難しかっただろう。
木から離れたところに立つ三人分の視線を浴びながら、いよいよてっぺん付近まで登った依依は、そこで一息吐いた。
(うー、やっぱり濡れた)
枝を揺らすたび、頭上からぱらぱらと水滴が降ってきたので、帽子も武官服もかなり濡れてしまった。裾には泥が飛んでいる。
依依はぶるぶると、犬のように頭を振る。
そうして太い枝の上で立ち上がると、手庇を作り、地上より多少は開けた景色を見回した。
「ええっと……」
山頂から見れば、もっと雄大で美しい光景が見られたのだろう。それどころでないのが残念ではあるが、依依はがっかり感は胸に秘めて首を巡らせ、目を凝らす。
幸い霧もあまり出ていないおかげで、間もなく目当てのものを発見した。
ついでに黒布、あるいは清叉軍の姿がどこかにないかと探してみるが、そちらは見つけられなかった。こちらは単なるおまけだが。
本命のほうは達成できたので、依依は再び枝を伝い、素早く高木から下りていく。木登りしている姿が敵に発見されたら、間抜けすぎて目が当てられないからだ。
地上まで残り十五尺のところで、依依は枝から飛び降りた。
「温泉宮が見えました、ここから西北西の方角です」
山中には温泉宮以外に大きな建造物がない。山裾にあるという偉容を目にしたことがない依依ではあるが、まず間違いはないだろうと思われた。
全員がほっと息を吐く。目的地の場所が知れれば、五里霧中の感覚からは解放される。
「距離は目測ですが、おおよそ五里ほどだと思います。地図……はいらないですよね」
宇静が「ああ」と頷く。地面に地図を書いても、山、山、木、山、みたいな内容になるのは目に見えている。
「五里なら、思っていた以上に近いな」
飛傑の声色はわずかに明るい。深玉には「あと少し」と「まだ遠い」の感情が半々ずつ見えたが、すぐに隠したあたりはさすがといえた。
一里は成人男性の約三百歩分に相当する。千五百歩、とすればそう遠くはない。歩幅が狭い依依や深玉なら、もう少し上乗せされるし、山の中ではまっすぐ歩くことはできないが。
あの洞窟は、しっかりと温泉宮の方角に進む形に広がっていたのだろう。依依たちとしては大助かりだ。
そこで依依はぐしゅん、とくしゃみをする。すこぶる水滴に降られて、身体が冷えてしまったようだ。
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