第105話.依依の焦り


「お前はここにいろ」

「追っ手の気配はしません。少しくらいなら離れても問題ないかと」


 依依の述べた理由に誤りはないが、わざわざ宇静についていく根拠としては希薄だ。

 その言葉で、内密に話したいことがあるのだと宇静も察してくれたようだ。頷いた彼と共に、依依はその場を離れる。


(よし、うまく行ったわ!)


 内心、依依はほっとしていた。ほとんど四人一組で行動しているので、依依が宇静と二人で話す機会はここまでなかったのだ。


 ――そう。


 依依は深玉の講じている策について、宇静に話しておくつもりだった。

 口止めされているが、致し方のないことである。自分ひとりで持て余す情報は、他の人にも流すしかない。この場合は上官の宇静である。


(さすがに皇帝陛下本人に話すようなことは、可哀想でできないけど)


 あの様子では飛傑も薄々勘づいているのかもしれないが、依依が告げ口するのと本人が自発的に気づくのではだいぶ違う。


(恨まないでね、円淑妃!)


 飛傑たちが見えなくなってから、依依は口火を切った。


「将軍様、お耳に入れておきたいことがあります」

「なんだ」


 こそこそと近づいていく依依に、宇静は最低限の言葉で応じる。

 話の早さに助かりつつ、依依は本題を口にした。


「実はですね、円淑妃が」

「淑妃が」

「皇帝陛下との距離を縮めたいそうでして」


 宇静が後ろを振り返る。もう二人の姿は見えていない。


「詳しく話せ」


(ははー)


 依依は深玉から受けた指示について、包み隠さず話した。


 聞き終えた宇静は、ぽつりと呟く。


「……そうか。先ほどの指が持ち上がらないうんぬんは、そういうことか」


(そういうことなんです)


 あの言動は、宇静の目にも不審に映っていたようだ。


「妃というのは、帝の寵愛を得るためならどんな無謀なことでもやるんだな」


 馬鹿にする類いのものではない。宇静の声音には感心がにじんでいる。


「無謀かどうかは、私には分かりません。いつか気持ちが届く日が来るかもしれませんし」


 深玉は見目麗しい女性だ。努力をし続けた結果、淑妃という高い地位を得てもいる。今のところその気はないようだが、飛傑が彼女の魅力に落ちる日が来ないとは限らない。


 しかし宇静は目を眇め、依依を見下ろしてくる。


「……お前がそれを言うか」

「どういう意味です?」

「いや、いい」


 なぜだか、呆れたような溜め息を吐かれる。


「話は分かった。それなら放っておいて問題はないだろう」

「えっ」

「むしろ策を弄するだけの元気があるなら、警護するこちらとしては助かる。皇帝陛下は迷惑がるだろうが、それくらいは引き受けていただこう」


 当てが外れた依依は戸惑う。てっきり宇静のことだから、そっと深玉を窘めるのではないかと思っていたのだが。


 洞窟内の調査を再開する宇静を、慌てて依依は追う。


「お前の危惧するところは分かる」


 何を言わずとも、宇静はそんな依依の心情に気がついているようだった。


「円淑妃が予測できない行動を取ることで、皇帝陛下が窮地に陥るのを防ぎたいのだろう?」

「そうです」


 依依は頷く。まさにそれが、深玉の狙いを宇静に話しておきたかった意図だ。


「だが淑妃は、そこまで馬鹿でも無鉄砲でもないぞ。これはたとえばの話だが……敵が目の前で剣を振りかぶったとするだろう。淑妃はそんな場面で、怖がる振りをして皇帝陛下に抱きついたりはしない」

「皇帝陛下を庇う、と?」


 子桐を助けた深玉の姿が、依依の脳裏に浮かぶ。

 しかしそのことを知らない宇静は、首を横に振った。


「だとしたら妃として立派ではあるが、おそらく我先に逃げ出すだろう。陛下への忠誠心よりも利益を追うのが円家の人間だ。そしてあの家の出身らしく、円淑妃は強かな女子だからな」

「……なるほど」


 依依はようやく、思い至る。


「余裕がなかったのは、淑妃じゃなくて私だったんですね」



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