第106話.かすかな光明
諭されるように話をされて、気がついたのだ。
(黒布には一方的にしてやられて、しかもその正体は灼家の人間っぽくて……)
これで動揺するなというほうが本来は難しい。
それでも依依は、自分では平静を保っているつもりだった。が、平常心とはほど遠かった。深玉の悪戯心にも惑わされるくらい、冷静ではなかったのだ。
少し考えてみれば、深玉が交戦中に色気を出すほど愚かでないのは明白である。
指が持ち上がらないと言い出したときは安全が担保されていた。時と所と場合とをきっちりと弁えて、深玉は行動している。
(まさしく杞憂、だったってことね)
都に来てから、何度も自分の未熟さを痛感してきた。今もまた、同じ思いを味わっている。
「気を抜かないのはいい。だがそれではここから先、持たないぞ」
耳に痛い忠告は、いつぞやの若晴の言葉と重なる。
気がつけば、依依は話し出していた。
「……私、故郷にいた頃に、何度か用心棒を請け負ったことがあったんです。初めて仕事を受けたのは、十二歳のときでした」
興味がない、と宇静はこの場を立ち去るだろうか。
それでも良かった。だが宇静は動かない。静かな目で依依を見つめているだけだ。
彼が手にする松明の炎が、揺らめく。
「商人だっていう男の人の護衛をすることになって……特に危なっかしい場面もなく、もうすぐ目的の村に辿り着くっていう夜でした。酒を飲んで酔っ払ったその人に、寝込みを襲われたんです」
「――、」
宇静が息を呑んだ気配がする。
依依にとっては苦い経験だ。
(すっっごく、酒癖の悪い人だったのよね……)
護衛対象のことを知れ、と教えた若晴は、何もこんな事態を想定していたわけではないだろう。だが相手のことを理解していないと痛い目を見るのだと、このとき依依は思い知った。
道すがら男は酒に弱いと言っていたが、依依は深く話を聞かなかった。そこまで彼に興味がなく、いつ敵が死角から狙ってくるかと、そちらにばかりどきどきしていたからだ。
だから酒を飲んでいいか問われたときも、好きにしていいと答えていた。もし男の酒癖について細かく確認していたら、そうは答えなかっただろう。
(相手が嘘を吐くことも考えられるけど)
目の動き。瞬きの回数。口角の上がり方。手指の動き。嘘を吐き慣れていない人間というのは、必ずどこかでぼろを出す。何か後ろめたいことがあると、唇から出てくる言葉ではなく、何気ない挙動のほうに答えが現れる。
男のことを少しでも知る努力をしていたなら、対策が講じられた。たとえば、本人の手が届かないところまで酒を遠ざけて、野営するにも距離を置くなど。
そうしなかったのは依依の怠慢だった。
「大丈夫、だったのか」
宇静が掠れた声で問いかけてくる。
「それはもちろん!」
依依はしっかりと頷いた。
己の慢心を悟ったからと、大人しくされるがままになる依依ではない。いちばん悪いのは、酒癖が悪い自覚があるくせ、懲りずに酒を飲むやつである。
「顔面が元の形を忘れるくらい、たこ殴りにしました。それと、お酒は二度と飲むなって言ってやりました。その日以降は、夜ごと縛って放置してやりましたし」
むしろあれでは依依のほうが、よっぽど襲撃者らしかっただろう。
「そんなことがあったおかげで、睡眠時はいつでも警戒心が持てるようになりました。清叉寮でも、大部屋で雑魚寝してたときはたびたび襲われましたしね」
あの苦い経験も、無駄ではなかったということだ。
無駄に胸を張る依依だったが、なぜかそこで宇静が頭を下げる。
「すまない」
(えっ)
依依はびっくりした。
別に、宇静が謝るようなことではない。性別を偽って清叉寮に入ったのは依依なのだ。いや、別に偽りたくて偽ったわけではなく、女官登用試験だと勘違いしていたのだが。
「謝らないでください。個室に移していただけて、こっちとしては助かったんですから」
彼の計らいで、依依は大部屋とはすぐおさらばしたのだ。あのときの宇静は依依が女だとは知らなかったのに、服が汚れた依依に沐浴場まで貸してくれている。
(そのあと春彩宴の警護係にも組み込んでもらえたし)
依依は今さらながら気がついた。
よくよく考えなくとも、宇静にはお世話になりっぱなしだ。
「将軍様。なんというか、その、いつもありがとうございます」
丁寧にお礼を言うと、宇静は気味悪そうな顔をする。
「なんだ急に。槍でも降らせる気か?」
依依は唇を尖らせた。
残念ながら、依依に天候を操る術はない。桂才あたりなら頼めばできるかもしれない。
「純粋な感謝の気持ちを伝えたいだけですよ。私、将軍様が一緒で良かったです」
依依ひとりだったら、飛傑や深玉を守りきれなかったかもしれない。
宇静の冷静さ、判断の正確さはこの上なく頼もしいものだ。彼がいれば、この先もなんとかなるだろうと思える。
「どういう意味だ、それは」
「言葉通りの意味です!」
にっこりと依依は笑う。
宇静は戸惑ったような顔をしていたが、やがて観念したように小さな声で言った。
「俺も、お前には…………なんというか、感謝している」
「それは、槍の雨では済まなそうですね」
「抜かせ。……言葉通りの意味だ、大人しく受け取っておけ」
宇静がそっぽを向く。そんな彼を見上げていて、依依は思い当たった。
(つまり、将軍様は私の耳に感謝してるってことね!)
確かに依依の耳は、ここに来るまで大いに活躍してきた。
「光栄です。私の耳も喜んでます」
「……耳?」
「そうですよ。私の耳はこうやって音を聞き取って、進む道を選び取ってきたわけで……」
依依は、そこでぴたりと口の動きを止める。
「依依?」
不思議そうにしている宇静には答えず、耳の横に手を当てて目を閉じる。
そうしていると、確かに聞こえてくる。まだ微かではあるけれど。
(そういえばさっき、松明の炎が揺れてた)
宇静は立ち止まっていたのに、炎は揺れていた。あれは空気が動いていたからに他ならない。
依依は宇静を見上げ、言い放った。
「将軍様、風の音がします!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます