第90話.いざ、温泉宮へ
訓練に明け暮れていると、時間はあっという間に過ぎていった。
そうしてやって来た、温泉宮への出発当日の朝である。
その日は朝から涼しい日だった。依依たち清叉軍の面々は飛び起きて甲冑を身につけると、宮城前に整列し、内廷から風雅に姿を現した馬車を迎え入れた。
銅鑼が鳴らされ、何十人もの官吏が見送りに立ってと、出立についてはなかなか華々しいものだった。
出発直後は浮き足立つ兵もいたが、歩き続ける間に気がついたのだろう。護衛のやることといえば、周りを警戒しながら休憩地点までひたすら足を動かすことだけなのだ。余計な体力を奪われるだけだと気がついた彼らは無駄話をせず、黙々と歩き続けている。
馬車は全部で四台。
乗り込んでいるのは、一台目が飛傑。二台目が瑞姫、三台目が深玉、四台目が桂才である。二台目以降の馬車には、それぞれ女官も同乗している。
馬車は都の大通りで見かけるようなものとは違う。どれも屋根つきの豪華な箱馬車だ。
二頭立ての馬は、それぞれ額に
(この金色の飾りだけで、私の何か月分の俸給になるのかしら……)
なんて思いを馳せる依依は、栗毛の駿馬に跨がっている。馬上訓練でも必ず組んでいる相棒で、先日、名前を与えてやったばかりである。
「
軽く身体を撫でてやると、ぶるるっ、と嬉しそうに嵐が鳴く。
しなやかな、均整の取れた肉体をした牝馬だ。名前の由来は、とにかく速くて暴れん坊なので嵐、である。肉体の屈強さでいえば宇静跨がる青毛の黒馬に劣るが、最高速度はそちらに負けていない。
この嵐、けっこう気難しい性格で、気に入らない人間は後ろ足で蹴ったり、馬上から振り落としてふんと笑ったりする困ったちゃんだ。
誰も扱えず持て余していたところを、宇静が依依と引き合わせた。洗礼として蹴られ、落とされと悲惨な目に遭った依依だが、一度も弱音を吐かず食らいついていった。こうしてひとりと一頭は泥臭くぶつかり合った末に、お互いを良き相棒として認め合ったのだ。
俊敏に動き回ることから、故郷では小猿の二つ名を有していた依依だ。小回りが利く嵐は、依依の能力を活かすのに最適な馬だった。相性の良さを察していたから、宇静はこの馬を依依に預けることにしたのだろう。
今では主人と認めた依依以外、乗せるのをいやがるようになった嵐である。鳥が蹴飛ばされて以降、そもそも誰も近づきたがらないのだが。
今回、馬に跨がっているのは宇静と依依だけで、大多数は徒歩である。五十人からなる一個小隊を四つに分け、四人の小隊長を任命し、それぞれの指揮下で馬車の警護に当たらせている。
宇静と依依はといえば隊に所属していない。宇静はすべての小隊を束ねる立場であるが、依依は自由に動き回っていいと言われている。
空夜や泰を含む十数人は居残りだ。留守にする間、後宮内で何かしらの事件が起こらないとも限らない。一時的に指揮権は飛傑から皇太后へと移っているそうだ。
(今回は空夜様がいないから、私がしっかり働かないと)
武官と思えないほど肥え太った泰はともかくとして、空夜は普段から宇静のために機敏に働いている。彼の代わりを依依が務めるのは難しいだろうが、宇静に役立たずと思われたくはない。
馬上から依依は見上げる。
このあたりの山脈は、すべて皇族が所有する土地だという。
人の手が入っていない神聖な霊山には、慈悲深い黄竜が住むという古くからの言い伝えもあるそうだ。
見上げるたび、山頂部は霧がかかっている。あまり迷信の類いは信じない依依でも、その言い伝えは信憑性があるのかも、と思えてくる。
そんなことを考えながら視線を戻すと、二台目の馬車に変化があった。
つるし飾りをした垂れ絹の端っこから、白い手が手招きをしている。
「ん?」
どうやら依依を呼んでいるらしい。嵐の腹を軽く蹴り、馬車に近づいていくと、その人物は絹の布をめくって顔を出した。
予想どおり、ちらりと顔を見せたのは瑞姫だ。
愛らしい姫君は依依を見るなり、ぱぁっと表情を明るくさせる。
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かなり久々の更新になってしまいました……!
ここから書籍版準拠のストーリーとなりますので、ウェブ版と一部設定の異なる点がありますがご容赦ください。
『後宮灼姫伝』、SQEXノベル様より第3巻の発売も決定しております。
発売中の1~2巻も、どうぞよろしくお願いいたします。
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