第89話.温泉宮への護衛任務

 


 その日、訓練の終わりを告げる銅鑼の音が鳴り止むなり。



「お、んっ、せ、んっ、だぁ~!!」



 宮城裏にある巨大な訓練場には、三人分の歓声が響いていた。

 訓練場とは名ばかりで、だだっ広く剥き出しの地面が広がる起伏のない空間だ。

 今日は騎兵、弓兵、槍兵それぞれの部隊を二つに分けて、攻守交代しての実践的な訓練を行っていた。


 栗毛の駿馬から降り立った依依は、騒ぐ牛鳥豚の兜を握った拳で軽く叩いた。


「ちょっと、うるさいわよ」

「はいっ! すんません大哥!」


 すかさず、地面をずざざっと膝で滑った牛鳥豚が頭を下げる。

 そんな四人組の後ろを、「またやってるよ」と言いたげな顔をして他の武官が通り過ぎていく。


「来月のことだっていうのに、今から浮かれてどうするの。私たちの役目は皇帝陛下たちの護衛なんだから、気を引き締めなきゃだめ」

「うす。大哥のおっしゃる通りっす!」

「温泉楽しみっす!」

「温泉卵食べたいっす!」


(ぜんぜん引き締まってないわ)


 きらきらと輝く目で返され、呆れる依依だが……。


(でもなかなか、上達してきたわ。体つきも良くなったし)


 ふむ、と目を細める。


 一日中、重い鎧を着け武具を握って、訓練をしたあとなのだ。

 身体には疲労が蓄積しているだろうに、これだけ体力が有り余っているのはむしろ褒めるべきだろう。それに訓練中の動きも三人とも冴えていた。普段の基礎訓練が着実な実を結んでいるということだ。


(さすが将軍様ね)


 依依は一武官でしかないが、ときどき宇静に求められてこっそりと訓練方法について意見を出している。


 だが、宇静の編み出した訓練法はなかなかどうして見事なものだ。最初は体力の向上、次に筋力の増強と、基本的な部分を固めてから本格的な対人戦に移行した。

 自分の身体はどうすれば速く、長く動くのか。動かし方を理解した上で臨むからこそ、やる気さえあれば多くの武官が実力を伸ばすことができる。


「依依、将軍閣下がお呼びですよ」

「はい、分かりました!」


 呼びに来た空夜に礼を言い、依依は馬を預けてその場を離れる。


「三人とも、そんなにやる気が有り余ってるならと閣下が訓練の追加を」

「うわーっ、疲れた! もうだめだ、起き上がれない!」

「良かった、起き上がれなくてもできる訓練だから」

「最悪だーっ!」


 三人への説教もお願いすることにして、依依は訓練場の片隅に張られた天幕へと向かう。


「お呼びですか、将軍様」

「ああ」


 外から呼びかければ、すぐに返事があった。

 中に入ると、砂で作った陣形図を眺めていた宇静が顔を上げた。


「温泉宮の件だが、灼賢妃は随伴から外れた」

「はい……本人から聞きました」


 依依は苦笑いする。

 無論、純花と直接会って話したわけではなく、彼女からの文に延々と愚痴と悲しみと謝罪の旨が綴られていたのだ。


 ――温泉宮。


 正式名称は紗温宮サオンキュウというが、通称のほうがよっぽど親しまれている。

 離宮のひとつに数えられ、主に皇族が静養する際に使われる宮殿である。宮城から北西の方角にあり、馬車で二日ほどあれば到着するという。


 今回、体調が回復した瑞姫の付き添いとして、飛傑はこの温泉宮へと滞在することになった。

 道中の護衛として抜擢されたのが、宇静率いる清叉軍である。

 しかも日頃の労いとして、武官たちにも一部の温泉の使用が許可され――皇帝専属武官である依依に至っては、なんと離宮に専用の部屋まで用意されているという。


 そのせいで牛鳥豚も浮かれに浮かれている、というわけだ。


(皇太后が言っていた『特別な褒美』って、十中八九このことよね)


 はぁ、と依依は溜め息を吐く。

 依依と瑞姫が恋仲であると誤解した皇太后は、変なところで気を回しているのだった。


 しかし温泉宮はあまりの居心地の良さ、景観の良さから、先の帝には妃嬪と入り浸りとなり、政務が滞った者も数多く居る。

 そんな曰くつきの場所であるからか、後宮の混乱をおさえるためか。飛傑は事前に四夫人に達しを出した。


 ――話し合い、あるいはそれに準ずる方法で、余に随伴する二人の妃を決めよ、と。


 飛傑が選ぶより角が立たない方法ではあるが、ある意味ではより妃たちが燃え上がったのは言うまでもない。

 といっても、帝の寵愛を得ようと画策したのは深玉だけだろう。桜霞はそういった策を弄する人物ではないし、それに。


(純花と……たぶん潮徳妃も、私と一緒に行くために奮闘したのよね)


 何かがおかしい気もするが、そこは間違いないような気がする。


「私たちは皇帝陛下、それと随伴する瑞姫様、円淑妃、潮徳妃の護衛を務めるんですよね」

「そうだ」


 宇静が物々しく頷く。


(円淑妃と潮徳妃相手じゃ、素直な純花には分が悪かったわ)


 深玉は見るからに搦め手が得意で、桂才はおそろしく勘が鋭い。

 後宮で繰り広げられたという賭け事について、詳細を把握していない依依ではあるが、あの二人が勝つであろうことはなんとなく予想していた。

 第一、賭けの手段自体を深玉が提案した時点で、彼女の勝利は始まる前からほぼ決まっていたのだろう。


「お前については皇妹殿下の馬車の横について守ってほしいと、皇太后陛下から要望もあった」

「……肝に銘じます」


 なんだか波瀾万丈な護衛任務になりそうだ。


「どうした。何をにやにやしている」


 そう思った依依だったが、口元が緩んでいるのは見抜かれていたらしい。

 むぎゅっと頬をおさえつつも、にっこりと笑ってしまう。


「将軍様。温泉、楽しみですね!」

「遊びで行くわけじゃないぞ」


 そう嘆息しながら、宇静の目はどこか優しい。


「温泉は初めてか」

「はい!」


 そもそも温泉自体、田舎暮らしの庶民とは縁遠いものだ。

 温泉宮と呼ばれる宮殿の温泉ともなれば、後宮や武官寮にある沐浴場とは比べものにならないほど規模が大きいのだろう。本当は依依も、牛鳥豚に負けないくらいわくわくしているのだ。


(本当なら、純花に行ってほしかったけど……)


 瑞姫ともずいぶん仲良くなったようだし、きっと楽しい小旅行になっただろう。

 しかし今回、純花はお留守番である。

 ならば依依にできることは、飛傑や瑞姫たちをしっかりと守り――そして、温泉を楽しむことではないだろうか。


 純花からの文にも、最後に「楽しんできてちょうだい」と書いてあった。

 そんなことを思い返して、依依の気持ちは弾むのだった。










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いよいよ明日12月7日、第2巻が発売です!

書店様によってはすでに並んでいるようです……!


アニメイト様・メロンブックス様・電子書籍サイト様でそれぞれ特典SSもついてきます。何卒よろしくお願いいたします~!




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