第三部
第88話.女たちの負けられない戦い
その日、後宮の一角には華やかな花々が咲き誇っていた。
後宮で最も麗しき花といえば、無論、誰もが皇帝の所有たる四夫人を思い浮かべるだろう。
東の青龍を司る樹家より、貴妃である桜霞。
西の白虎を司る円家より、淑妃である深玉。
北の玄武を司る潮家より、徳妃である桂才。
南の朱雀を司る灼家より、賢妃である純花。
風が吹き、揺れた枝からさらさらと赤く色づいた葉が舞い落ちる中、美しく着飾った四人が一堂に会する茶会の場。そこは、通りすがる宮女や女官が思わず足を止め、ほうと溜め息を吐くほどに色鮮やかである。
だが、見た目の麗しさとは裏腹に、四人はそれぞれ強い覚悟をもって茶会に臨んでいた。
その中でも、一世一代の戦いに挑む戦士のように、華奢な肩に気合いを漲らせているのは純花である。
(絶対に……絶対に、負けられないわ!)
そんな彼女たち――四人が輪になって囲んでいるのは、大きな硝子製の水盤だ。
水盤にはたっぷりと澄んだ水が張られている。今まさに、古い茶器を傾けて水を注ぎ終えた深玉が、用意していた銅貨を茶器へと落とした。
からん、と甲高い音が、蓋の向こうへと消えていく。
茶器の注ぎ口を布で拭うと、それこそ水が滴るほど妖艶に、深玉は微笑んでみせた。
「さぁ、これで準備は完了ですわぁ」
賽に花札、お茶の目利きなどなど。
賭け事にはそれこそいくらでも種類があるが、今回、四人が挑戦するのは銅貨落としと呼ばれる賭博である。
勝負方法は単純明快。何か蓋のついた器に銅貨を入れ、水を注いだ水盤の中に沈める。蓋を開けて、銅貨の裏表で勝敗を決めるのだ。
不正を防ぐために、参加者は裏表の予想を口にする際に、必ず器を手に持つ。その際に器を揺らしたり、振ったりしても構わないとされている。子どもでもできるような簡単な賭け事で、地域によって細かくは異なるが似たような種類の賭けがある。
この方法を提案したのは深玉だ。
いつも偉そうで高飛車な深玉と、純花は犬猿の仲だ。初めて会ったとき、赤い髪を「良い商品になりそうだわぁ」などと嘲笑われたときから、純花は彼女に苦手意識を持っている。
だから深玉の提案というだけで反対しようと思ったのだが、桜霞や桂才が「問題ない」と返してしまったため、何も言えなくなってしまった。家柄も立派で、それぞれ威風堂々としている四夫人たちが相手だと、純花は黙り込んでしまうのが常である。
(でも、やっぱり反対すべきだったかも……)
深玉のことだ。きっと常人には思いつかないようなずる賢い手段を、勝負の場に持ち込むはず……。
「では灼賢妃から、表か裏か宣言してもらえる? その次は灼賢妃の左隣の潮徳妃、樹貴妃、あたくしという順番でいいかしらね」
「わ、わたくしからっ?」
驚いた純花の声がひっくり返る。
それだけで深玉が、まぁっと目を見開いた。
「あらあらぁ。今の灼賢妃の声だけで、茶器の中の銅貨がひっくり返ったかもしれないわ」
(いちいちいやみったらしい!)
ぐにゃりと顔を歪めつつ、純花は一生懸命に観察する。
水盤に何か、怪しい仕掛けはないだろうか。茶器や、蓋はどうだろうか。
銅貨は――と考えてみるけれど、見ていた限り、用意された小道具にも、深玉の手つきにも、特に違和感はなかった。
そもそも衆人環視の中、自分が勝利するための手を打てるものだろうか?
(でもわたくしから選ばせるってことは、きっと何かしらの魂胆があるはずで……)
「どうしたの、灼賢妃。もし先に選ぶのがおいやなら、あたくしから選びましょうかぁ?」
「え、あっ」
そう思っていたのに、あっさりと翻されそうになり純花は慌てる。
「い、いいわ。わたくしから選ぶわ」
卓子の上に置かれた茶器を手に取ると、軽く上下に振ってみる。
中からは銅貨が動く音がする。しかし当然ながら、蓋がされた中身が見えるはずはなく、天を向いているのが表か裏か分かるはずはない。
三人分、それに控える女官たちの注目の視線を浴びて、純花の焦りは加速していく。
もはや冷静に、何かを考える余裕はなかった。
「え、ええと……お、表にするっ」
「表ね。じゃあ次、潮徳妃」
「……裏で」
どこか人並み外れた異質な雰囲気の持ち主である桂才が、茶器に指だけちょんと触れて宣言する。
何やら怪しげな術を使うという桂才のことなので、勘は鋭そうだ。そんな彼女と真逆の選択肢を選んだことに純花は不安を覚えるが、選び直すことはできない決まりだ。
「次は樹貴妃よぉ」
「では、表にいたします」
冷や汗をかく純花の手から茶器を受け取った桜霞が、うふふと微笑む。
「せっかくなので、灼賢妃と同じ選択にしてみました。こういった遊び……賭け事は初めてですが、なんだかわくわくしますね」
「そ、そう……」
桜霞がどういうつもりか分からないが、純花は気の利いたことがまったく言えなかった。緊張して、それどころではないのである。
「樹貴妃と灼賢妃は表。潮徳妃と、残ったあたくしは裏ね」
そうして茶器は一周回り、深玉のもとに戻る。
彼女はまた適当に茶器を上下に振り、それを横に控える女官へと手渡す。
「この茶器を水の中に沈めてちょうだい」
女官が頷き、茶器をゆっくりと動かす様を、純花はごくりと息を呑み込んで見送る。
ばくばくと心臓が激しく騒いでいる。両手を祈りの形に組んで、純花は心の中で叫んだ。
そう、絶対に負けられない。
なぜならば。
(お姉様と
そうして。
運命を決める、茶器の蓋が開かれる――。
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