第83話.思いがけない訪問者
あんぐりと口を開けた依依は、顔を青くする。
(ちゅ、純花を泣かせちゃった……)
今さらのように罪悪感が胸に押し寄せる。
初めて参加する市で、たくさんの買い物を楽しんでいた純花。
そんな妹の楽しい思い出が、依依のせいで台無しになってしまったのかもしれない。そう思うと、依依は申し訳なさで堪らない気持ちになった。
「ごっ、ごめんね純花。本当にごめん!」
跳ね起きて土下座しそうになっている依依の肩を、慌てて明梅がおさえる。
頬を流れる涙を袖でそっと拭った純花は、緩く首を振った。
「……お姉様。別にわたくし、怒ってるんじゃないの。嬉しいのよ」
「うれ……しい?」
「そうよ。だってわたくしの贈り物が、お姉様の役に立ったんでしょう?」
うふ、と純花は照れくさそうに口元を緩めている。
「今まで、お姉様に助けられてばかりだったもの。だからわたくし、本当に嬉しいの」
「純花……」
「それに高価な簪を薬にしちゃうだなんて、お姉様らしいわ。他の人にはきっと真似できないわよ?」
なんて優しい妹なのだろうか。
感動して目を潤ませる依依の額を、純花が濡れた布巾で拭ってくれる。その冷たさに、額がかなり熱いのだと気がつかされた。
「ほら、寝て休まないと。まだ起き上がれる状態じゃないって、お医者様が言ってたんだから」
「分かったわ、純花」
純花にここまで言われては、依依は大人しく目を閉じるしかないのだった。
◇◇◇
それから数刻後、侍医がやって来て依依は軽い診察と問診を受けた。
医者も驚くほど驚異の回復力を発揮しているという依依は、そのときには起き上がって粥を食べられる程度に回復していたのだが、まだしばらく安静にするようにと告げられた。
皇帝付き武官といえども、複雑な事情を抱える依依のため、世話係として林杏が残ってくれることになった。ただし賢妃付きだということを悟られないように、純花手製の刺繍のない女官服に着替えている。
純花と明梅は名残惜しそうにしつつ、その日のうちに灼夏宮に戻っていった。依依の存在は伏せられているだろうから、いくら妃といえども、延々と皇帝の寝室に入り浸っているというのは体裁が悪かったのだ。しかしこれで、ますます純花は寵妃として囁かれることになりそうだ。
ちなみに林杏によると、依依に寝床を貸したっきり、飛傑は一度も寝室に姿を見せていないらしい。
そういえば飛傑だけでなく、依依の上司である宇静も一向に現れない。どちらも小言を言ってくるだろうと思っていたのにもかかわらず、だ。
二人とも相変わらず多忙なのだろうか。あるいは――。
(私、避けられてる?)
首を捻って理由を考えても、思い当たることがない。
ゆっくりと養生させてくれているのだから、何か罰が与えられるとは考えにくいが。
林杏も詳しくは知らされていないようで、依依は答えが分からないまま日々を過ごすことになった。
といっても、寝て起きては味の薄い食事をとり、さぁおやすみくださいと毛布をかけられる毎日である。
林杏以外には部屋を訪れる人も居ない。依依はすでに変化のない日々に飽き飽きしていた。
訓練をしないと鈍る一方なのだが、林杏が目を光らせているので日中は身体を起こすこともできない。致し方なく、夜になると寝台に転がりながらできる屈伸運動や軽い運動に励んだ依依だが、おそらく隣室に控える林杏は物音で気がついていたことだろう。小言を言わなかったのは林杏なりの優しさだったと思われる。
しかし我慢強くない依依が、そろそろ曲芸でも披露して全快を主張しようかと考えていた頃である。
寝室に入ってくるなり、林杏が慌てて話しかけてきた。
「依依様、落ち着いて聞いてください。……あの、実は」
この歯切れの悪い切り出し方には覚えがある。
が、あまり良くない記憶だ。依依はすでに渋い顔になりつつ、致し方なく「どうしたの?」と続きを促した。
「皇太后陛下がいらっしゃっています」
「……なんですって?」
「ですから」
林杏が叫ぶように繰り返す。
「お部屋の前に皇太后陛下が、いらっしゃってるんです!」
「…………こ、皇太后?」
なぜ急にその名前が出てくるのか。
唖然とする依依だったが、林杏はちらちらと両開きの戸を振り返っている。もうその前まで皇太后一行が来ているのだろう。
「私、会ったこともないわよ。どうして皇太后陛下が?」
「あたしだってそんなの分かりませんよ!」
林杏はほとんど半泣きだ。
だが皇太后を待たせるわけにもいかない。林杏が依依にえいやと勢いよく頭巾を被せる。
上半身だけを依依が起こすと、それからほどなくして。
現れたのは、美貌の女性であった。
結い上げられた見事に青い髪には、宝冠を戴いている。
切れ長の青い瞳に、薔薇色の頬、真っ赤な唇。可憐というより美しく整った顔立ちで、細身の身体には豪奢な衣をまとっている。
翡翠や黄玉を使った簪や耳飾り、指輪を着けているが、そういった宝飾品よりも光を放つほど神々しい。
彼女の持つ生まれつきの気品が、全身から溢れ出るかのような佇まいであった。
(この方が、皇太后陛下……)
あまりに若々しい美貌に見惚れていた依依は、慌てて拱手しつつ、心の中で首を傾げる。
(……二児の母、なのよね?)
飛傑と瑞姫の実の母親なのだから、年齢もそれなりに重ねているはず。
だが、息子である飛傑ともそう年が離れているようには見えない。並べば姉弟だと思い込む人も居そうだ。
不老の仙女だったりして、と依依は突拍子もないことを考えていた。思いがけない大物の登場に現実逃避したい気分だったからだ。
――皇后の座が空席である今、後宮の支配者は皇太后といえる。
しかし彼女は、普段は宴や儀など、特別な行事の際にしか人前に姿を見せず、皇太后宮で過ごすことが多い。自身の娘である瑞姫に危機が迫ったときなどは、口出しすることもあるが、権力を振りかざすような真似はしない。
表向き静養している依依を慮ってのことだろう、皇太后が連れる女官はたったひとりだ。
衫をまとっているだけの依依は、とたんに心許ない気持ちになる。寝台から出ようとすると、皇太后は衣袖を軽く振るような仕草をした。
「構わないわ。楽にしてちょうだい」
依依はその言葉に安堵した。
「感謝します、皇太后陛下」
皇太后の前で失礼のないように振る舞うというのは、田舎育ちの依依には厳しい。
しかし寝台に腰かけていれば、失礼な真似をしでかさずに済むだろう。もはや体調不良っぽい演技をしたほうがいいかもしれない。
(思いっきり咳き込んだら、さすがにわざとらしいかしら……)
林杏が用意した椅子に、皇太后がゆったりと腰かける。
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