第84話.微笑む皇太后
「お、お茶を準備してまいります」
「いいの、すぐにお暇するから気にしないで」
林杏はいえ、と硬い声で答え足早に部屋を出て行く。
職務に燃えているというより、単にこの空間に留まりたくなかったのだろう。依依は裏切り者を見る目で見送ってしまった。
林杏が去ってしばらく経つと、皇太后が依依に向かって言う。
「詳しいことは皇帝から聞いたわ。楊依依、瑞姫を救ってくれてありがとう」
「もったいないお言葉です」
他に答えようがない。というのも依依は勝手に後宮に侵入したのだ。
しかも壁を蹴りつけて望楼に駆け上がり、姫の寝室に入り、そこで毒を浴びて倒れ、しかも飛傑の寝室を占拠している。
自分が思う正しいことをしただけだが、それが許されない行為だと理解してはいる。
依依が萎縮しているのを見て取ってか、皇太后が微笑む。
「そう縮こまる必要はないわ。だってそなたは――皇帝の勅令に従って、働いただけだったのでしょ?」
え? と依依は問い返しそうになるのを、どうにか堪えた。
皇太后の目線の先。寝室におかれた棚の上に、とある巻物がおかれていた。
豪奢な意匠には見覚えがある。依依が皇帝付き武官に任ぜられたときに使われていたのと、同様のものだ。そういえば依依が目覚めたときから、そこにあった気がする。
「瑞姫を治療するための薬を持ち、急ぎ後宮に参じること。そなたはただ、皇帝の命に従っただけ」
皇太后の口ぶりからするに、そこにはおそらく、依依にそれを命じる内容が書かれているのだろう。
完全にねつ造ではあるが、それが自身を守るための方便だと分からない依依ではない。飛傑は依依のために、危ない橋を渡って勅令書をあとから用意してくれたのだ。
「ねぇ、楊依依。武官でありながら、薬の知識があるの?」
「……はい」
依依はおずおずと頷いた。
「育ての親が、薬草に詳しかったんです。僕は幼い頃から、いろんなことを教わってて……」
「烏犀角についても、その方が?」
「そうです。病だけでなく毒にも効く薬だと教えられました」
訊かれたことひとつひとつに、依依は丁寧に言葉を返す。
そのたび皇太后は何度も頷き、嬉しそうに目を細めている。
笑った顔はどこか、悪戯好きの狐にも似ていて、依依にはある人物を彷彿とさせる。
よくこういう顔で、飛傑はくすくすと小さく声を上げて笑うのだ。
(やっぱり、皇帝陛下にそっくりだわ……)
そうして楽しげにしていた皇太后だが、その顔は少しすると暗くなっていた。
依依が不思議に思っていると、ぽつりと弱々しい言葉が漏れる。
「そなたが居なければ……妾はもう少しで娘を、殺すところだった」
依依は意識を失う前に聞いた話を思い出す。
仙翠が言っていた。瑞姫の持っていた簪は、元は皇太后に贈られたものを、彼女が娘に譲ったものなのだと。
その事実を皇太后も聞き及んでいるのだろう。
「……違います、皇太后陛下」
「え?」
後ろに控える女官が、不安そうに眉根を寄せている。
皇太后の言葉に異を唱えるなど、本来は許されぬことなのだろう。
だが依依は怯まずに、言葉を続ける。
「皇太后陛下が、ではありません。すべては、毒羽の簪を贈った者の策略のせいです」
「……、」
「あまりご自身を責めないでください。そんなことはきっと、瑞姫様も望んでいないと思います」
明るく慈悲深い瑞姫のことだ。
自分が毒に倒れたことを、母のせいだとは思わないはず。短い付き合いだが、依依はそう確信していた。
皇太后はしばらく黙り込んでいたが、引き結ばれていた唇は、少しずつ解けつつあった。
やがてそこには、緩やかな笑みが浮かぶ。顔を上げた皇太后は、明るい顔をしていた。
「……そう、ね。そなたの言うとおりかもしれない。瑞姫を、見くびってはいけないわね」
「ええ。おっしゃるとおりです」
依依は自信満々で頷く。
そんな風に母に誤解されることこそ、きっと瑞姫は悲しむはずだから。
「ところで、楊依依」
目を細めた皇太后が、取り出した白い扇で口元を隠している。
依依はぱちぱちと瞬いた。口元こそ見えないが、皇太后の目は細められている。つまり、楽しげに笑っている。
皇太后は依依に、ひっそりと耳打ちする。
「そなた、瑞姫に惚れているの?」
出し抜けの問いに、依依はぽかんとしてしまう。
「…………はい?」
絶句した依依の反応を、皇太后は何やら勘違いしたらしい。
「恥ずかしがらなくても良いわ。妾には正直に話しなさい」
さぁさぁ、と楽しそうに迫られても、依依は途方に暮れるしかない。
(……え、なんの話?)
一から考えてみる。
依依の正体が灼家の姫であること。まして女であることは秘密にされている。
皇太后の目の前に居るのは、楊依依という名の下っ端武官でしかないわけだ。
皇太后にとっての依依は、武官の身でありながら、瑞姫を救うために後宮に乗り込んだ勇ましい若者だと思われている。
しかし相手は仕え先でもなく、面識もない姫君だ。そうなると、自ずと答えは絞られてしまう。
つまり、だ。
(私、瑞姫様に身分違いの恋をしてる、とか思われてる……!?)
とんでもない誤解である。
「ち、ちが、違います。わた――僕はただ、瑞姫様を助けたかっただけで」
動揺のあまり依依の舌はもつれ、うまく回ってくれない。
くすくすと笑った皇太后が、目を大きく見開いて依依を見つめている。その瞳の輝きは、まるで童女のそれである。
「どうする。瑞姫を娶る? 諸侯王に女がついてはいけない、という決まりはないもの。南王の座が空くことだし、そこに瑞姫をおいて、夫としてそなたに統治させるというのも悪くないけれど」
「え? いや、あの、僕は……」
(南王の座が空く?)
そのあたりについて詳しく聞きたい依依だが、皇太后は許してくれない。
彼女は手にした扇子で、依依の顎を持ち上げてみせる。
あまりにも艶やかな美貌が、間近からずずいと依依に迫る。瑞姫もいずれはこんな風に成長するのかと、そう自然と考えてしまう。
真っ赤な唇が、色っぽく言葉を紡いだ。
「――楊依依、あの子がほしい?」
「……っ」
「ほしいなら、あげる。ほら、素直にお言い」
もはや言葉もうまく出てこない。
色香に惑わされるまま、思わず頷いてしまいそうになる。そんな自分を依依はなんとか律する。
(このままじゃ、瑞姫様にものすっごい迷惑をかけてしまう!)
毒から回復したかと思えば、結婚相手として依依が用意されているなどと知ったら、また瑞姫は衝撃を受けて倒れてしまうかもしれない。
そんな可哀想なことはできない。声の出ない依依は、ぶんぶんぶん、と激しく首を横に振りたくった。
しかしそれで拒絶の意は伝わったらしい。
扇子が外れて、皇太后はすぼめた唇を覆ってみせた。
「そう? あの子のほうは、満更でもなさそうだったけれど……」
なぁんだ、つまらない、と言いたげな顔だ。
(ころころと表情の変わる人だわ……!)
なんというか皇太后は、飛傑によく似ている。
否、飛傑が皇太后によく似ているというべきなのか。
(って、あれ?)
「瑞姫様は、目を覚まされたのですか?」
「ええ。そなたのおかげでね」
皇太后が頷く。慈愛に満ちた微笑は母親のそれだ。
「そうでしたか……良かった!」
安心感から顔いっぱいで笑った依依は、またにやにやとした顔で見られているのに気がつき、大慌てで俯いた。
「ふふ……今回の件は本当に感謝しているの。そなたには特別な褒美を用意しておくから」
「え? は、はい……ありがとうございます」
お礼は言ったものの。
特別な褒美という響きに、なぜかいやな予感を覚える依依なのだった。
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