第82話.目覚めた依依

 


「――――ふぎゃっ!」



 悲鳴とも叫び声ともつかない声を上げて、依依は目を覚ました。

 そのとたん、濡れた頬を感じる。しかし持ち上げようとした手がやたらと重くて、眉根を寄せていたら。


「お、お姉様ぁっ!」


 がばりと飛びついてきたのは純花だ。

 のしかかるような重さに、依依はうぐっと呻いたが、純花は気がつかないようでまったくどいてくれない。


「よ、良かった。良かったわ、目が覚めて……ううっ……」


 純花はぽろぽろと涙を流している。

 どうやら依依の頬を濡らしたのは彼女だったらしい。泣き止まない純花の熱い頬を撫でてやりながら、依依は目だけを動かして部屋の中を見回した。


(ここは……)


 依依が寝かされているのは、見覚えのない寝室だった。

 天窓からは明るい日の光が取り入れられている。天蓋つきの豪奢な寝台に横たえられた依依の目元に、ちょうど日光が射したようだ。


「純花、ここは……」


 おぼつかない口を動かして、場所を問おうとした依依は、壁に飾られた額に目を留める。


(花海棠……の、押し花?)


 劣化を防ぐためだろう、額に入れられた赤い花と蕾。

 どこか見覚えがあるそれを不思議そうに見つめていると、純花の後ろで目を潤ませていた明梅が、さらさらと帳面に筆を走らせて掲げてくれる。


 ――『ここは皇帝陛下の寝室です』


「こっ……」


 豪華さからして、もしかしてとは思っていたが、本当に飛傑の寝室なのか。


「お姉様ったら、かれこれ二日も寝てたのよ!」

「二日間も!?」


 そっちのほうがよっぽど依依はぎょっとした。

 なんてことだろうか。信じられない。


「二日分もの食事を食いっぱぐれたなんて……!」

「そもそもふつうの人なら二度と目覚めないかもしれなかったのよおお!」


 ぽすぽすと胸を叩かれれば、依依もはっとする。

 普段は元気がありあまっている依依が、二日間も寝ていたのだ。看病してくれたらしい純花は、よっぽど心配していたに違いない。

 ぐすん、ぐすん、と泣いていた純花の声も、依依が宥めているうちに、次第にすんすん、と洟を啜る音へと落ち着いていく。それでも、弱々しい罵倒の声は止まなかった。


 後ろに立つ明梅まで、どこか怒ったように目をつり上げて依依を見ている。


「ばか、ばかばかばか。本当にわたくし、心配したんだから」

「……ごめんなさい、純花。明梅も」

「なんで自分から毒を吸うなんて、無茶な真似するのよ!」

「自分でも、その、反省しているわ」


 と謝りつつも、依依は思う。

 時間が巻き戻ったとして、たぶん自分は同じ手段を選ぶだろう。あれ以外、円滑に瑞姫を救う方法は思いつかなかったのだ。


(でも、心配させちゃったわね)


 若晴が亡くなった今も、依依には気にかけてくれる家族が居るのだ。

 自分ひとりで責任を負うと言い切って、毒を浴びることにしたが、もしあのまま依依が命を落としていたら、どれほど純花は気に病んだことだろう。


 純花だけではない。林杏や明梅、涼に牛鳥豚。あと桂才など。

 それにもしかすると宇静や飛傑だって、依依の死を悲しむかもしれない。


(次からは、ちゃんと、相談しないと駄目だわ)


 溜め息を吐く依依の脳裏に、思い浮かぶ。

 同じく依依の死を嘆き悲しむだろう姫の顔が浮かんだとたん、依依は無理やり身体を起こした。


「……って、そうだわ。瑞姫様は? 大丈夫なの!?」

「……あの子は、まだ目覚めてないわ」


 愕然とする依依の顔の前で、純花が両手を振る。


「心配しないで。容態は安定してきているの。ただ、体力が回復するのに時間がかかるのですって」

「そうなのね……」


 ならば、峠は越えたということだろう。

 依依の処方した解毒薬を、誰かが瑞姫にちゃんと飲ませてくれたのだ。瑞姫が無事だと思うと、依依の全身からは力が抜けていく。


「ほら、まだ寝てて」


 純花が再び依依を寝台に寝かせてしまう。

 やはり思っている以上に身体が疲労しているのか。近寄ってきた明梅に、肩まで手触りの良い毛布をかけられて、また目蓋を閉じそうになる依依だったが。


 その瞬間にかっと目を見開いた。


「そうだわ!」

「もう! お姉様ったら、まだ何かあるの?」


 まったく大人しくしない依依に、純花は頬を膨らませる。

 そんな妹に依依は激しく頷く。


「ありがとう。あなたのおかげで本当に助かったのよ」

「え? なんのこと?」


 誰にも詳細は聞いていないのだろう。純花はきょとんとしている。

 依依は破顔して、純花の頭を優しく撫でた。



「ぜんぶ、純花がくれた簪のおかげなの!」



 依依は純花と明梅に、すべてを説明した。

 瑞姫を侵す毒が特殊なものであったこと。解毒のために、純花がくれた簪が役立ったこと。


 あの簪に使われているのは犀の角。それも烏犀角と呼ばれる貴重なものである。

 あらゆる毒の解毒に優れると謳われる烏犀角を、依依は鳥と協力して削ったのだ。

 鋸があれば良かったのだが、そんなものは清叉寮にはない。そこで演習場におかれている槍を借りてきて、硬い角を砕いていった。最終的にはすり鉢に入れて、粉末状に砕き、薬包に包んだのである。


 そして烏犀角は、見事に依依と瑞姫を蝕む毒を排出してくれた。

 語り終えて満足――というより、疲れてきた依依は、そこではたと気がついた。


(あれ? これってもしかして……純花、怒るんじゃないかしら?)


 ……そうだった。


 純花はお揃いの装飾品として、依依に簪を贈ってくれたのだ。

 あの美しく珍しく、とんでもなく高級な簪を、まさか薬の材料にされるためごりごりと削られてしまうとは、夢にも思わなかったに違いない。


 その証拠に話を聞いた純花は、俯いて黙り込んでいる。


「ちゅ、純花。ごめんね、違うのよ」

「…………」


 おろおろと手をかざした依依は、ぎょっとした。

 純花の大きな赤銅色の瞳から、ぽろりと涙がこぼれていたのだ。



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