第81話.夢とうつつ
びくっ、と依依の肩が揺れる。
(こ、これ、な、なに!?)
頭の中は疑問でいっぱいだ。
こじ開けられた喉の奥に、ひんやりと冷えた水の感触が通り抜ける。
溶け込んでいる独特の苦みは、煎じた粉末のものだろう。冷たいはずなのに、状況を理解すればするほど、焼け爛れるように腹の底が熱くなる。
(私の口に、くっついてるのは……)
依依の顎を掴んだ誰かは、もう片方の手で後頭部を支えて、貪るように激しく唇を奪う。
そう。依依は生まれて初めて――誰かに、接吻されているのだった。
「っうん……ふ、」
でも、これではうまく、息もできない。
息苦しさに依依が喘ぐと、口端から水がこぼれかけたが、その人はそれすら許さないというように、依依の口を隙間なく塞いでしまう。
びくりと膝を震わせる依依をおさえつけて、少しも逃がしてくれない。覆い被さる身体は逞しく、普段ならばともかく、毒にやられる依依ではとても抵抗できなかった。
何が何やら、と衝撃で半ば意識を失いかけた依依だったが、ここで気絶してはいけない。その誰かは、依依が死にかけていたから、口移しで飲ませてくれているのだ。
つまり、善意による行動である。気を失えば、その人の気遣いが無駄になる。
(でも私、たぶん自力で飲めたと思うんだけど……)
感謝と文句の言葉を伝えるためにもと。
なんとかして、依依は目をこじ開けて、その人物の胸板を叩いた。拳に力を入れて、必死に叩いてやった。
相手も抗議の意に気がついたらしい。開かれた瞳に、確かに見覚えがある。長い睫毛に縁取られた、美しい瞳だ。
その持ち主は――。
(…………皇帝、陛下?……将軍……様?)
その答えが分からないまま。
依依は、わずかに開いていた目をゆっくりと閉じた。
◇◇◇
「あのね、いいかい? あれは鳳凰じゃなくてね、毒鳥なんだよ」
「毒鳥ですって?」
若晴の解説する言葉を、そのときの依依は半信半疑で聞いていた。
毒鳥なんて、今まで見たことも聞いたこともない生物だ。
本当にそんなものが居るのか、眉唾である。――という本音が顔に出ていたらしく、若晴は呆れた様子だった。
「世界ってのは広いんだ。依依の知らない生き物も、人も、いくらでも居るんだよ」
「それは、そうかもしれないけど」
依依の知らないことは、今まですべて若晴が教えてくれた。
「でも私、ずっと若晴と一緒にこの村で生きていくもの」
だから、知らない生き物や人を、知っていくことはないだろう。それらは、依依の生活に関わることはないのだから。
それを聞いた若晴は、口を開けて、ぎゅっと引き結んで、再び開けた。
「……馬鹿を言うんじゃないよ」
「んがっ」
依依は呻いた。というのも、急に背中を蹴り飛ばされたのだ。
たたらを踏むように前に出た依依は、いててと背中を擦りつつ後ろを振り返った。
「若晴! いくら私が丈夫だからって、足蹴にしなくたって――」
しかし、続けられなかった。
もう若晴はそこに立っていなかった。周囲には色濃い霧が漂っている。人や家屋の影も、山の端を舞う毒鳥の姿さえ、どこにも見当たらない。
依依は、誰も居ないところに、ぽつんとひとりで立っているのだ。
「依依。あんた、こっちに来るのは早すぎるよ」
どこからか、老婆の声が言う。
声音は柔らかくて、若晴はきっと笑っているのだろうと、依依は気がついた。
「まだまだ土産話も、足りないね。もっとたくさん仕入れてから、もう一度おいで」
若晴、と育ての親の名前を、依依は掠れた声で呼ぶ。
答える声はない。依依の双眸に涙が込み上げた。
あっという間に、どこかに行ってしまったのだ。久しぶりに会ったのだから、もう少しくらい、話してくれてもいいのに。それくらいの時間を、くれてもいいのに。
――それは、どこまでが過去で、どこからが夢だったのだろう。
遠くから依依を呼ぶ声が聞こえて。
闇の中に溶けていた意識は急速に、浮上していく。
しっとりと濡れた頬を感じながら、依依は目蓋を開けた。
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