第65話.市の始まり

 


 妹付きの女官たちが、毎日のように空を仰いで心配する中。

 そんなことは知らない依依だったが、市の開催日を迎えた彼女はこんなことを考えていた。


(さーて、純花は何を贈ったら喜んでくれるかしら?)


 もちろん、最初から瑞姫ばかりを贔屓するつもりはない依依である。

 純花は商人をいくらでも呼びつけられる立場なのだし、依依の贈り物なんていらないかもしれないが……それでも何かしら用意したいのが姉心というもの。


(刺繍道具……は間に合ってるわよね。布や糸が王道だろうけど……)


 それにしたって、純花は自分で好みのものを普段から仕入れている。

 美的感覚が優れているとは言い難い依依が何か買っても、気に入らない可能性のほうが高い。


 うむむ、と悩む依依の頭を、前を歩く宇静が振り返って軽く叩く。


「おい、集中しろ」

「すみません」


 気が逸れているのが、鋭い宇静にはとっくにばれていたらしい。

 というのも依依は現在、武官の格好で後宮内に居る。護衛任務の真っ最中なのだ。


 晴れ晴れと澄み渡った空の下。


 普段はきらびやかな後宮だが、その日は普段と様子が違う。

 大きい通りには大量の天幕が並び、それ以上の数の商人、下級妃や女官たちがごった返しになっている。


 美しくきらめく宝石や鉱石。

 細やかな細工の施された小箱や、螺鈿の漆器。

 海外から仕入れられた珍しい茶葉に、動物を模した人形。


 あらゆるものが売られる天幕の間――整備された石畳の道を、皇帝一行はゆったりと進んでいる。

 宦官が差す大きな絹張りの傘の下、飛傑は優雅に歩を進める。その周りを囲む清叉軍のひとりが依依だ。

 歩くたびに、甲冑が耳障りな音を立てる。全員が帯刀もしているが、そう物々しい雰囲気ではない。

 商人が出入りしてはいても、武器や危険物の持ち込みは細かく制限されているからだ。


「…………っ!」


 飛傑が通りがかるたび、誰もが息を呑んで頭を大きく下げる。

 本来であれば全員が地面にひれ伏すべきだが、せっかくの市だからと飛傑が許したのだ。

 畏敬の念を抱かせるよりも、皇帝の寛容さを見せつけているのか。難しいことは依依には分からないが。


 道の外れには、そんな皇帝の姿を一目見ようと宮女たちがひしめいている。

 きゃあきゃあと小声で騒ぎながら頬を染める気持ちは、分からなくもない。飛傑がうら若く見目麗しいのは事実なのだから。


 ……が、依依は心の中で思う。


(見た目に騙されちゃ駄目よ。この人、けっこう腹黒いんだから!)


 彼女たちにも用心してほしいところだ。

 そんなことを考えていた依依は、視線を感じて首を巡らせた。


 そこで硬直する。

 振り返った飛傑が足を止めないまま、胡散臭い笑顔でこちらを見ていたのだ。


(心の声を聞かれた!?)


 愕然としたが、ここで逃げ出すわけにもいかない。 

 依依は怖々としつつ、飛傑の傍に寄っていく。その背中を、宇静が見つめているのには気がつかずに。


 開口一番、飛傑はこう言った。


「楊依依。何かほしいものはあるか?」

「ありません」


 ずばっと依依は答えた。


「なんだ。つれないな」


 飛傑が嘆息する。

 だがなんと言われようと、飛傑に買ってほしいものはない。


「そういうことは、僕ではなくてお妃様たちに言っていただけます?」


 周りに聞こえない程度の音量で言う。

 間違っても一武官を相手に言うことではない、とやんわり諭したつもりだった。


 今日も四夫人たちは、自分の宮殿に商人たちを呼んでいるはずだ。

 そこに飛傑が遊びに来たら、妃たちはどれほど喜ぶことだろう。深玉シェンユあたりは一緒に服や装飾品を見てほしい、と飛傑にねだるのではないだろうか。


(純花や潮徳妃は、微妙かもしれないけど……)


 あの二人が飛傑が訪れて喜ぶところは、いまいち想像がつかない。

 しかし飛傑は、依依の諫言に聞こえない振りを決め込んでいる。


「いいのか? 菓子類も売っているようだが」


 ……ぐ、と依依は言葉に詰まった。

 さすがに後宮の雰囲気を損なわないために、屋台らしい食事は売っていないものの、甘い香りがそこかしこから漂っているのには気がついていた。


「子どもじゃありません。自分で買えます」

「やはり買うのか」


(あっ!)


 うっかりしていた。

 慌てて口元を覆う依依に、くすりと飛傑が笑う。


 飛傑が立ち止まると、周りの全員も足を止め、姿勢を正した。


「余は帰る。仕事を疎かにしない程度に、各人で市を楽しむといい」


 声を張っているわけではないのに、飛傑の声はよく響き渡る。

 数人の武官が顔を見合わせる。つまり、皇帝直々に個人的に買い物しても構わない、と許したということだ。


 ……どうやら彼なりに依依を気遣ってくれたらしい。


 こちらに一度だけ目をやってから、飛傑は数人の近侍だけを連れて去って行く。

 ただでさえ忙しい彼は、もう外朝に戻るようだ。


 あとは取り決め通り、清叉軍の面々はそれぞれ与えられた持ち場を見回るだけとなる。

 しかし特に浮かれる顔はない。飛傑はああ言ったが、後宮で開かれる市に男が興味を持つような品々など売られていないからだ。


 皇帝付きである依依はといえば、自己判断で動くよう言われている。

 飛傑はああ言っていたし、買い物をしても咎められることはないだろう。


 市のほうを見てみようかと迷ったところで、思いつく。


(なんだかひとりで回るのも、寂しいかも)


 せっかくの市なのだ。

 どうせなら誰かと一緒に見て回るのもいいだろう。



「将軍様。少しでいいので付き合っていただけませんか?」



 去ろうとしていた背中に呼びかけると。

 振り返った宇静の眉間には、胡乱げな皺が刻まれていた。



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