第64話.林杏の心配事

 


 純花が、灼夏宮に戻ってきた。

 それは彼女の世話を務める専属女官・林杏にとっての吉報であった。


「灼賢妃、こちらにも目を通していただけますか?」

「分かったわ」


 うきうきしながら巻物の束を持ってきた林杏に、純花が刺繍の手を止めて頷く。


 来週には後宮で大規模な市が開かれる。

 下級妃や女官たちは、たくさんの天幕を見て回るのだが、四夫人のひとりである純花の場合は、有力な商人たちが商品を手にこぞって宮殿を訪ねてくる。


 純花はひとつずつの巻物を紐解いて確認している。

 巻物の中には各商売人の目玉商品や、得意とする売り物の一覧が書かれている。


「こっちは呼んで。あ、こっちにまとめたほうは呼ばなくていいわ」


 ぽいぽい、と純花が仕分けていく。

 灼夏宮に呼ぶ商人のほうを、林杏も見てみる。純花は衣服や装飾品だけでなく、布や糸を専門的に扱う商人を多めに呼ぶ方針のようだ。裁縫や刺繍が得意だからだろう。


 純花の横顔はどこか楽しそうだ。

 昨年は参加できなかった行事なので、林杏も感慨深いものを感じる。


「あ、林杏も明梅も、気になる人が居たらこっちに巻物を置いておいて」

「えっ、いいんですか?」


 まさか女官風情の意見を、純花が取り入れてくれるなんて。

 林杏が驚いた顔を向けると、純花が微笑む。


「もちろんよ。二人にはずっと苦労させてしまったもの、これくらいさせてちょうだい」

「灼賢妃……!」


 林杏は涙ぐみそうになる。明梅も瞳を潤ませていた。

 お姫様らしくそれなりに我が儘な性格だった純花だが、ここ最近はなんと慈悲深くなったことだろう。


(これも、灼依花シャクイーファ様……いえ、依依様の影響よね)


 生き別れの姉妹だという二人だが、依依は純花の危機に現れて颯爽と彼女を救ったのだ。

 純花は依依のことを慕っている。林杏や明梅にこんな風に優しくした、こんな風に声をかけた、と依依に報告すると、たくさん褒めてくれるそうで、それが嬉しいらしい純花の我が儘はすっかり鳴りを潜めている。


 それを思うと依依にも感謝したくなる林杏だが。


(でもあの人の傍に居ると、いっつもひどい目に遭うのよ!)


 依依が余計なことを口走り、皇帝の前で不埒な女官扱いを受けたこともある。

 先日なんて徳妃である桂才が妖しげな術を用いたせいで、林杏の胸に急に痛みが走ったのだ。

 睨みつけてくる暗い視線を思い出すだけで、林杏はぞっとする。あのまま殺されてもおかしくはなかったかもしれない……。


「林杏、震えてるの?」

「い、いえ。大丈夫ですっ」


 荒くなりかけた息をどうにか整えてから、林杏は明梅と共に巻物を見ていく。


 目が行きがちなのは、化粧道具の品名だ。

 明梅もまた、熱心に髪結いの道具や髪飾りの項目を見ている。

 純花の化粧は林杏、髪結いは明梅が主に担当している。どうしてもお互い、仕事のことを考えてしまうが。


「小物入れが壊れちゃったから、新しいのがほしいかも」


 わざと声にすれば、明梅が目を丸くしている。

 でも純花は、仕事ではなくて、林杏たちの気になる商人を呼んでいいと言ったのだ。

 それを思い出したようで、明梅もまた、口元を緩ませて他の巻物を見ている。


「そういえば林杏」

「はい、灼賢妃」

「お姉様は、皇妹殿下とずいぶん仲良くされているそうね」


 ――やはりこの話題が来た、と林杏は息を呑む。


 純花は卓子の上に広げた巻物に目を落としたままだが、それは気のない風を装っているだけである。

 依依が多くを語ったとは思えない。本当は後宮に戻ってきてから、この話について聞きたくて聞きたくて仕方なかったはず。


「ええ、そうですね。皇帝陛下直々のご依頼ですから」


 飛傑の依頼だ、ということを林杏は強調する。


「そうね。でも皇妹殿下はお姉様のことを姉呼ばわりしているそうだけれど」


 依頼内容から逸脱している、と純花は主張したいらしい。


「人の姉を勝手に姉呼ばわりするなんて、殿下もいやらしいところがあるわよね」

「しゃ、灼賢妃」


 皇族を非難するような発言は、誰かに聞かれたら大事である。


 純花の頬はむすりと膨らんでいる。どうやら瑞姫に妬いているようだ。

 妹の嫉妬心に依依は気がつかなかったのだろう。勘の鋭い人だが、他人の心の機微にはわりと鈍感だ。


(それに皇妹殿下の症状の理由を探るのも、灼賢妃には内緒だって)


 純花を巻き込みたくないから、と依依に口止めされている。

 瑞姫絡みからなんとか話題の矛先を変えたい林杏は、巻物に目を走らせた。


「あっ、ご覧ください灼賢妃。こちらの商隊では珍しい簪や帯留めを扱っているようです」

「あら、本当……」


 ここで一息吐こうとする林杏。


「そういえば皇妹殿下は簪集めがご趣味だそうね」


 ――が、数秒にして話題が戻ってしまった。

 頭を抱えたくなる林杏だが、これもなんとか乗り切らねばならない。


「そ、そうですね。たくさんの種類をお持ちだそうです」

「ふぅん。お姉様も見せられたのかしら」

「そのようです。あれだけいろいろ持っていると、贈り物に簪は避けたほうが無難よね、とかなんとか」

「――なんですって?」


(あっ…………)


 林杏は一気に真っ青になった。

 失言に気がついて口を覆うも、時既に遅く。


「林杏、今の話は本当なの?」


 純花が林杏の両肩を掴む。

 ぐいぐいと揺さぶる。林杏はもう震えるばかりだ。


「お姉様が皇妹殿下への贈り物を用意しているの? そうなのね?」

「あっ、あう、それは」

「…………!」


 そのやり取りを見ていた明梅が、素早く立ち上がった。

 しゃしゃしゃ、と墨を磨ると、何事かを紙に書きつける。


 掲げられた紙には、達筆な文字でこのように書かれていた。


『依依様はきっと、灼賢妃への贈り物も内緒でご用意されていることでしょう』


 ……ぴたり、と純花の動きが止まる。


「えっ。そう、かしら? でも林杏にも明梅にも、何も話してなかったんでしょう?」

『灼賢妃を驚かせたかったのでは』

「……そういうことね! それならわたくしは、気がついていない振りをしなきゃね!」


 一気に純花が上機嫌になる。

 ふんふんふん、と鼻歌を口ずさみながら、どけていた巻物を開いていく。


「わたくしもお姉様への贈り物を準備するわ。何がいいかしら。やっぱり食べ物?」


 九死に一生を得た林杏は、こっそりと明梅にお礼を伝える。


「た、助かったわ明梅。ありがとう」

「…………」


 気にしないで、というように首を振る明梅。


 しかし一難去ってからも、二人は同じ不安を抱えている。

 依依は、果たして純花への贈り物も準備しているのだろうか?


(し、心配だわ……)


 答えは、依依のみぞ知ることである。



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