第63話.激しい視線
きっと宇静のことだから、下らないとか、どうでもいいとか、そう一蹴するのだと思っていた。
だから本当に、その言葉は思いがけないものだった。
「きれいだ」
するり、と耳元に流れ込んでくる短い響き。
驚いて、依依は顔を上げた。幻聴かと思ったのだ。
けれど視線が合った瞬間。
宇静が目を伏せ、口元を拳で覆う。
まるで勝手にこぼれ落ちてしまった本音を、今さら依依の前から隠すように。
(き、きれいって、今)
「…………っっ」
――宇静に当てられたように、依依の顔にまでぶわりと熱が上る。
昨夜の飛傑も可愛いとか言った気がするし、宇静まできれいとか言い出すし。
今まで男の人にそのような言葉を向けられたことはなかったから、依依はわけが分からなくなる。
(か、顔に出てたらどうしよう!?)
水を向けられれば、宇静だってお世辞のひとつくらい言うだろう。
そう分かっているのに、動揺が隠せない。しかも褒められた依依より嬉しそうにした瑞姫が、耳元に囁いてくるには。
「義姉さま。朴念仁の小兄さまが女の人を褒めるだなんて、わたしの知る限り初めてだわ」
「……っ瑞姫様!」
これ以上からかうのはやめてほしい。
降参だとばかりに依依が名を呼べば、瑞姫は袖で口元を覆っている。笑っているようだ。
「……瑞姫」
そんな中、宇静が一際低い声で瑞姫を呼ぶ。
宇静は訝しげに目を細め、瑞姫を睨みつけていた。
そこらの童女であればあまりの迫力に気圧され、泣き出してもおかしくはないが、さすがに瑞姫は慣れているようで平然と見返している。
「お前、何か良からぬことを企んでいるだろう」
質問ではなく詰問の口調。宇静には確信があるようだった。
「わたしは、別に何も?」
愛らしく小首を傾げる瑞姫だが、宇静はますます瞳の温度を冷たく下げていく。
このままでは恋華宮に季節外れの寒風が吹き荒れそうだ。いち早く立ち直った依依は二人の間に割って入った。
「そういえば将軍様! 合議は無事に終わったんですか?」
(我ながら話を逸らすのが下手だわ!)
内省しつつ、他の話題も思いつかなかった依依である。
目の前に割り込んできた依依に驚いたようだが、宇静は顎を引いた。依依の意図を察してくれたようだ。
「問題ない。清叉寮に戻ってきた際にお前にも文書を見せる」
「分かりました」
仕事の話となれば、不穏だった雰囲気は一気に霧散する。
「小兄さま。市場の日も義姉さまのこと、しっかり守ってさしあげてね」
「余計な口出しをするな」
かと思いきや、また逆戻りである。
妹に対するものとは思えない宇静の厳しい口調。一触即発の空気に、依依は一気に青くなったのだが。
「何を勘違いしているか知らないが……そもそも依依は、俺に守られるほど弱い人間じゃない」
「!」
きっぱりと言い放つ宇静。
その言葉と態度には、依依への信頼が如実に表れていた。
「だからこそ、皇帝陛下も自らの護衛として抜擢された。その能力があると認めたからだ」
「もちろん分かってるわ」
瑞姫は表情を変えずに頷く。
「
ほんの小さな囁きは、わずかに依依の耳を掠めた。
しかし瑞姫は、何事もなかったようににっこりとすると。
「でも、義姉さまは女性なのだもの。それは忘れちゃ駄目よ、小兄さま」
「……分かっている」
「なら、いいの。生意気なことを言ってごめんなさい」
しゅんとする瑞姫の頭を、軽く宇静が撫でる。
「俺も、悪かった」
どうやら仲直りは済んだらしい。
「依依。そろそろ帰るぞ」
振り返った宇静に呼びかけられる。
瑞姫の体調を思えば長居は禁物、と考えていたのはお互い様のようだ。
「はい。お邪魔しました、瑞姫様」
「また市場のあとにでも遊びに来てね、義姉さま」
瑞姫に手を振られ、依依たちは恋華宮の寝室を出る。
そこをすぐに呼び止められた。依依を呼んだのは仙翠だ。
「灼賢妃、少しいいでしょうか」
「私に何か?」
と聞き返しつつ、依依は少しどぎまぎしていた。
先日も瑞姫は、依依と話したあとに体調を崩してしまったのだ。
仙翠は主である瑞姫をよく慕っている様子。「主に負担をかけるな」と怒られても致し方ないと思っていたのだが。
緊張する依依に、仙翠は大きく頭を下げた。
「ありがとうございます」
だが、仙翠に礼を言われるような覚えはない。
理由が分からず黙り込む依依に、仙翠はゆっくりと頭を上げると。
「あなたが恋華宮にいらっしゃるようになって、瑞姫様はだいぶ表情が明るくなられましたから。感謝しています」
「そんなの、お礼を言われるようなことじゃないわ」
もともとは飛傑が頼んできたことだ。
それに今は、依依の意志で恋華宮に通っている。瑞姫のことを好ましいと思い、彼女の助けになりたいと思っているだけだから、誰かに礼を言われる筋合いはない。
しかし仙翠の表情は優れない。
「それにあなたのことについて、私は勝手に瑞姫様にお話ししてしまって……」
「他の人には、内緒にしてくれているでしょう?」
そう依依が笑ってみせると。
感謝いたします、ともう一度、仙翠が丁寧に頭を下げた。
仙翠とは別れ、回廊を歩いていると。
「どうしてお前は笑っている」
背後から呼びかけられ、依依はびっくりした。
なんと、彼は前を歩く依依の表情まで見抜いていたのか。
「いや、それは。……あはは」
振り返りつつ、笑って誤魔化そうとする依依。
自分でも先ほどから締まりのない顔をしている自覚はある。
理由は仙翠に感謝を告げられた、その件に起因するものではない。
依依は一度、宇静と手合わせしたことがある。
そこで敗北を味わったが、若晴以外にも自分より強い人間が居るのだとわくわくしたものだった。
そんな実力者に認められるというのは、どうしたって嬉しいもので、だんだんと笑みが込み上げてきたのだった。
「将軍様。また近いうちに手合わせしませんか?」
身体が弾むほどの高揚感を覚えつつ、そう訊いてみると。
なぜか宇静が嘆息を落とす。
「どうされました?」
「……今は、妃嬪の身代わりをしているくせに」
呟かれた言葉の性質は、愚痴に近い。
聞き返す前に、宇静の骨張った指が依依の腕を掴んでいた。
振り解いたりはしない。強い力は込められていなかった。
むしろ――壊れやすい宝物を扱うような手つきだったから、抵抗できなかったのだ。
「顔や身体に、目立つ傷でも作ったらどうする」
「……そんなへま、しませんけど」
腕がぐいと引き寄せられる。
宇静の視線が、依依の指先を注視している。純花と異なり節くれだっているのは、依依が多くの武器を扱う武人だからだ。
そんな手を、どうしてか宇静は大切そうに見つめている。
「それでもだ。しばらく我慢しろ」
言い聞かせるように念押しされれば、依依は自分が我が儘を言う子どものようだと思う。
実際に依依はむくれてしまった。十六歳にもなって瑞姫と同じような扱いをされるというのは、些か気に食わない。
そんな、やはり子どもっぽい表情に気がついた宇静が、小さく笑みを漏らした。
引き寄せた依依を至近距離から見下ろして、言ってのける。
青を帯びた黒目が、獲物を見つけたように爛々と輝く。
「――役目が終われば、いくらでも相手してやる」
(笑ってる……)
滅多に見られない宇静の笑顔。
今日は、ひどく獰猛だ。挑戦者を迎え撃つ気迫に満ちている。
ぞくりと肌が粟立つのは、好戦的な笑みに感化されてだろうか。
それとも――。
「……さっさと灼夏宮に戻るぞ。俺は忙しい」
ぱっと宇静が手を離して、依依は再び自由になった。
なんだかんだ言いつつ、妹との約束はしっかりと守るつもりのようだ。
依依は何気なく、そんな宇静の顔を覗いてみるが。
仏頂面の中には、すでに笑みの残滓もないのだった。
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