第61話.可愛い子
震える林杏と共に灼夏宮に戻ったその夜のこと。
楽しい夕餉と沐浴を済ませ、さてとっとと寝ようと思った依依だったが、そこにとある人物の訪問があった。
「依依、変わりないか」
なんてにこやかに声をかけてくるのは飛傑である。
飛傑は有無を言わさず寝所に入ると、手慣れた様子で寝台に腰かけた。
(朝は将軍様と一緒に瑞姫様を訪ねて、昼は冬潮宮に行って、夜は皇帝陛下……)
盛りだくさんすぎる一日である。
げっそりする依依だったが、林杏たちの動揺は少ない。少しずつ飛傑に慣れてきたらしい。
明梅は珍しく口元に微笑みを浮かべて、燭台の蝋燭に火を灯している。夕餉のあとに食べた杏仁豆腐がよっぽどおいしかったようだ。
寝台を見下ろしたまま沈黙する依依に、ふっと飛傑が口元を緩ませる。
「恥ずかしがることはないぞ。一度、共寝した仲だろう」
(誰が恥ずかしがってるって!?)
挑発的な物言いが、実に腹立たしい。
飛傑は自分のすぐ隣を、ぽんぽんと叩いている。依依はむっとしつつ、そこに遠慮なく座り込んだ。
譲る必要はない。なぜならばこの寝台は依依の――ではなく、純花の寝床なのだから。
(むしろ私のほうが堂々と座っていいはずだわ!)
衫に上着を羽織った依依は、ぷいとそっぽを向く。
そんな姿を横目で見てにやにやしつつ、飛傑が首を傾げた。
「瑞姫に会ったそうだな」
やはりその件が気になっていたらしい。
宇静がすでに報告しているだろうが、依依本人の口から聞きたかったのだろう。
気持ちは理解できるので、依依は素直に頷いた。
「ええ。とても可愛らしい方でした」
「今後も話し相手になってくれるか?」
「もちろん」
頼まれずとも依依自身が、すでに瑞姫のことを好ましいと思っている。
飛傑はほっとした様子だったが、少し申し訳なさそうに形のいい眉を下げた。
「……面倒をかける」
なんだかおかしくなって、依依は口元だけで微笑んだ。
「将軍様も、同じことを言ってましたよ」
飛傑が目を見開く。
「そうなのか」
「はい。やっぱり兄弟だからか似てますね」
「……そんな風に言われたことは、今まであまりなかったな」
呟く飛傑は、どこかぼんやりとしている。
聞き返そうとして、依依は口を噤む。
宮廷での宇静の立場は、複雑なものだったと聞いている。
皇帝の息子でありながら、そうだと認められなかった子ども。
彼らが子どもの頃は依依もまた幼く、辺境の地で暮らしていた。
だから飛傑や宇静がどんな日々を過ごしていたのか、知ることはできないのだが。
なんとなく、訊いていた。
「弟って可愛いですか?」
「は?」
想定外の質問だったようで、飛傑は唖然としている。
膝を抱え込んだ依依は、隣の彼を仰ぎ見てにっこりと笑う。
「だって、妹って本当に可愛いから。この歳になるまで、自分に姉妹が居るなんて知りませんでしたが……陛下はどうでした?」
しばらく、飛傑は何も答えなかった。
無視したわけではないらしい。目を閉じて腕組みをしている。熟考の構えだ。
昔の自分と宇静のことを、思い返しているのかもしれない。
答えを急かすつもりはなかったから、依依も黙って待つ。
月光を取り入れる窓から、細い声が聞こえる。
数分後、ぽつりと飛傑が呟いた。
「可愛…………くは、ない」
まだ考えはまとまっていないのか、ぎこちない返答だった。
依依は目蓋の裏に思い浮かべる。宇静の仏頂面を。眉間に浮かぶ皺の数々を。
(まぁ、可愛……くは、ないか)
どう考えても、可愛いという言葉とは無縁の将軍様である。
「可愛くはないが、余はあれが可哀想だとずっと思っていた」
「可哀想?」
「高い能力がある。努力もしている。だが前帝や臣下たちは宇静が何をしても、疑うようなことを言うばかりだったから……可哀想だと」
切れ長の瞳には、憐憫というだけでは説明のつかない光が宿っている。
(それは裏返せば、可愛い、ってことなんじゃないかしら)
飛傑や宇静が、瑞姫を可哀想だと慈しんでいるのと同じ。
きっと宇静のことも、飛傑は可愛いのだ。だから傍に置いて、彼に守られながら、同時に彼を守っている。
(なんて、私が言っても無意味だろうけど)
飛傑だって、誰かに言われずとも本当は分かっているはずだ。
そんな飛傑の口から宇静の話を聞けたのが、依依は嬉しくも感じていた。
「では、寝るか。今日は朝議が長引いて疲れた」
少し気恥ずかしかったのか、飛傑が言い訳じみたことを口にしながら横になる。
その様子をじぃっと見下ろしつつ、依依は咳払いをする。
「ところで陛下」
「なんだ」
飛傑は壁のほうを向いたまま返事をする。
「今後は夜更けに訪ねてくるの、やめていただけませんか?」
「なぜ」
なぜではない。
すっかり調子を取り戻してしまった飛傑に、依依は唇を尖らせる。
「というか聞きましたよ。純花や他の妃のところには、昼間にしか訪れないって」
純花からもたらされた情報だ。
つまり飛傑は、依依が後宮に居るときだけ夜に訪ねてきている。
それを偶然だと流せるほど依依は鈍感ではない。
(ふつうにひとりで寝たいのよね)
他人と寝床で並ぶというのはどうにも緊張する。
それに飛傑は何かと依依に触れようとする。前回も怪しい雰囲気になったのを誤魔化したが、本当に心臓に悪かったのだ。
気怠げに振り返った飛傑が、依依のことを見上げる。
心の底を見透かすような目にも、どきりとさせられる。
視線を逸らさないのは、依依が負けず嫌いなのと、その瞳を心のどこかで美しいと思ってしまうからだ。
「理由は?」
「え?」
「どうしてそなたのところにだけ、こんな時間に訪ねてくるのだと思う」
それなら考えるまでもない。
依依のところにだけ、飛傑が夜更け過ぎに訪ねてくる理由――。
「いやがらせでしょう?」
……一拍置いて、耐えかねたように。
ぶはっと飛傑が噴き出した。
「そなたは本当に、ック、おもしろい……」
(別に笑うことないじゃない!)
誰だってそう思うに決まっている。
むっとしつつ、依依も寝台に横になる。
薄い白布を二人の身体にかけると、その毛布ごと抱き寄せられた。
「ちょ、ちょっと!」
「いいだろう、これくらい」
抗議の声も、飛傑には届かない。
「今夜は暑いくらいですけど?」
「寝苦しくなれば、蹴落とせばいい」
実際に皇帝を蹴落としたことがばれれば、依依は無事では済まないというのに。
呆れながら、依依は大人しくなる。依依も眠いから、余計な問答で疲れたくないのだ。
そうしつつ、少しだけ本音が漏れた。
「どうせならもう少し早く来て、夕餉も食べればいいのに」
返事はなかった。
もう寝たのだろうか。今ならば腕から逃れられるのでは――。
そう思い顔を上げてみれば、なぜか飛傑は目を開いたまま固まっている。
「……なぜ?」
今夜の飛傑は、妙に「なぜ」が多い。
しかし依依も、深く考えての発言ではない。
どう答えたものかと思うが、思ったことを正直に言う他なかった。
「陛下はいつもおひとりでお食事されているんでしょう? 食事は大人数で食べたほうが、楽しいじゃないですか」
依依にとって食事とは、和気藹々と楽しむものだ。
辺境ではいつも若晴と一緒にごはんを食べていた。近所の夫婦や悪餓鬼たちを呼んだことも、呼ばれたこともあった。
食卓に並ぶのは、後宮で出てくるような豪勢な内容ではなかったけれど、かけがえなく楽しい時間だった……ということを、依依は飛傑に話した。
「……余が居たら、楽しいか?」
問うてくる飛傑は、まっすぐに依依を見つめている。
なんだか否定しにくい空気だ。依依は曖昧に頷いた。
「まぁ、それは。そうですね、もちろんですとも」
「…………」
飛傑が手を伸ばして、依依の頬を撫でる。
以前の、背中がぞわぞわするような触り方ではない。ただ、そこに居るかどうかを確かめるような手つきだったから、依依は少しの間だけ、されるがままになっていた。
「楊依依」
「はい」
「そなたは、可愛いな」
「……はっ?」
その真意を問い返す前に。
気がつけば、飛傑は小さな寝息を立てている。
疲労しているのは事実だったのだろう。ずいぶんと寝つきがいい。
起こすのも気が引けたので、依依は口を閉ざした。
眠る直前、何やら変なことを言っていたが、あれもほとんど寝言のようなものなのか。
(そういえば瑞姫様の病について探ること、話し忘れちゃったけど……)
よくよく考えれば、飛傑の依頼の範疇から外れている。
期待されても困るから、彼にも宇静にも言う必要はないだろうか。
そう思い、依依も目を閉じた。
やはり今夜は、少しばかり暑かった。
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