第60話.甘味に釣られて

 


 文にはいつでもお待ちしているとあったので、依依は翌日には冬潮宮トウキョウキュウを訪ねることにした。


 初めて訪れる宮ではあるが、恋華宮や灼夏宮に比べても、やや地味めな内装という印象だ。

 だがそれも、この宮殿の主のことを思えば不思議ではない。彼女は、自身も妃嬪らしく華美に着飾るのを好まない性質だ。


 林杏を連れて応接間へと案内された依依は、そこで待ち受けていた人物に頭を下げる。


「潮徳妃、こんにちは」

「はい……またお目に掛かれて本当に、嬉しいです……」


 相も変わらずぼそぼそと聞き取りづらい声で喋る桂才だが、その頬はうっとりと紅潮している。

 やや不気味な様相ではあるが、依依は深くは突っ込まない。また竜脈がどうのこうの訥々と語られても困るからだ。


(にしてもやっぱり、一目で私だって分かってるのね)


 魂の色を見分けられる、と口にしていた桂才。

 彼女は自力で、純花の身代わりを演じる依依を見破ってみせた。その能力はやはり本物のようだ。

 席を勧められた依依は、さっそく切り出してみる。


「潮徳妃。実はこちらに伺ったのは、瑞姫様についてご意見をいただけたらと思いまして」


 得心がいった、というように頷く桂才。


「幼い皇妹殿下の症状に、呪いが関係しているか……でしょうか?」


 さすがに察しがいい。


 桂才の女官が、茶器に茶を注いでいく。

 透明な黄色の茶から湯気が立つ。香りからして茉莉花茶だろう。


 それで唇を湿らせた桂才が、ゆっくりと口を開き直す。


「結論から、申し上げますと。皇妹殿下は、誰かに呪われたりはしていませんね」


 依依の予想通りの言葉だった。


 以前にも桂才は、紅桃によって陥れられた純花を救おうとして、灼夏宮の周りに呪符を貼りまくったという過去がある。


 結果はともかくとして、損得は考えずに誰かを救うために行動する人だ。

 もしも瑞姫が呪われているなら、桂才は恋華宮にもぺたぺたと呪符を貼っていたはずだが、そんな話はどこからも聞こえてこなかった。


「無論、呪いにも満たない恨みや嫉みの気配は、恋華宮からも感じられます。が、その程度であれば、どの宮でも大なり小なり、漂ってくるものですから」

「では瑞姫様は、やはりご病気なんですね」

「そうですね……。あの方も黄竜の血が濃い方。気を弱らせて病を得たわけでは、ないでしょう」


 つまり瑞姫の症状は精神的なものではなく、身体の不調を来してのもの。


「お役に立てず、申し訳ありません」

「とんでもない。助かりました、潮徳妃」


 実際に、桂才の話はかなり参考になった。

 本人はやや変わった気風の人だが、ほしい情報は十分に得ることができた。


「では、私はこれで」

「噂で」


 立ち上がろうとした依依は、そんな言葉に押し留められ座り直す。


「――聞きました。清叉軍将軍と一緒に、皇妹殿下の下に通われている、とか」

「ええ、まぁ。瑞姫様の話し相手を務めるようにと、陛下からお話しがありまして」


 桂才もすでに知っていたらしい。


 実は今日も、朝餉のあとに依依と宇静は恋華宮を訪ねていた。

 瑞姫から昨日の非礼について謝りたい、とわざわざ申し出があったからだ。

 やはり具合は悪そうで、起き上がることもできない彼女とは二言三言交わし、その場を辞したのだが。


(後宮って本当に、噂が出回るのが早いわね)


 しかしその理由が、身代わり生活を送った今は依依にも理解できる。

 後宮に住む妃や女官が、常に異変に敏感なのは、降りかかる火の粉を避けるためというだけではない。

 娯楽がないからこそ、起伏や変化を求めるのだ。彼女たちは他人の噂話を楽しみ、日々の糧としている。


 だから依依は、そこまで驚かなかったのだが。

 桂才の話には続きがあった。


「一部では灼賢妃と将軍閣下の関係を、危ぶむ声もあるようです」

「は? 私と将軍様の仲、ですか?」


 よく意味が分からない依依は、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 桂才は細い眉を下げつつ、続けた。


「……お二人が男女の関係なのでは、と」


 飲んでいた茉莉花茶を、依依は危うく噴きそうになった。


(な――なんですってっ!?)


 依依と宇静が、男女の仲?

 それはつまり、それはつまり――そういうことなのか?


「そ、そんなのただの噂です!」

「もちろん私には、分かっています」


 真っ赤になって否定する依依に、桂才が大きく頷く。

 その目はやたらとぎらぎらしている。研がれた刃物のようだ。


「でも、どうかお気をつけて。将軍閣下は特に黄竜の血が濃いのです」

「思いっきり疑ってるじゃないですか!」


 非難の色濃く指摘する依依だが、桂才は不安そうな表情だ。


 まさか桂才と、こんな話をする羽目になるとは。

 慣れない色恋絡みの話でぐったりしつつ、依依は立ち上がろうとした。


「では、私はこれ」

ファン。例のものを準備して」


 が、再び桂才が依依の退室を阻止する。

 先ほどお茶を淹れていた女官が頭を下げ、部屋を出て行く。


「では、私は」

「実は」

「…………」


 三度も遮られ、うんざりする依依の耳に。

 その単語が飛び込んできた。



「――――杏仁豆腐をご用意しています」



(え……っ、杏仁豆腐!?)


 薬膳料理のひとつとして知られる杏仁豆腐。

 気管支などの症状に重宝がられる杏仁きょうにんはそれ単体だと苦いため、牛乳や桂花糖を使って苦みを消すという。

 辺境では牛乳や、それに高級品の砂糖も滅多に手に入る代物ではなかった。依依は若晴から教わった杏仁豆腐なる食べ物がどんなものか、思いを馳せていたものだった。


 しかし今、桂才はその杏仁豆腐を用意していると言う。

 そんなことを言われてしまっては――、依依はこう返すしかできない。


「ありがたくちょうだいします」

「灼賢妃!」


 林杏に袖をぐいっと引っ張られても、依依の気持ちは揺らがない。


「いけません! 妃ともあろう者が甘味に釣られて!」

「林杏の分も用意しています」

「な、なぜあたしの名前を……っ」


 林杏が震えている間に、芳と呼ばれていた女官が戻ってくる。


 銀の盆の上に並んでいるのは、菱形に切られた、見るも涼しげな白い寒天。

 依依は目を瞠る。その上に、なんと赤紫色の桜桃まで載っていたのだ。


(豪華だわ!!)


 歓声を上げたい気分になりながら、依依は遠慮せず匙を手にする。

 ぷるぷると震える寒天をすくい上げ、口の中に運ぶと、舌の上で甘さが爆発する。


「甘いっ! 甘くておいしいわ……!」


 もはや、どこが薬膳料理なのか。脳を蕩かす凶器じみたおいしさである。

 ほっぺたを押さえて身悶えしつつ、依依はさらに二口、三口と味わう。


 そんな依依の横で、林杏はばつが悪そうな顔をして黙っている。


「林杏ももらったら? ほら、だって林杏の名前には杏が入っているじゃない?」

「意味が分かりません……」


 上機嫌の依依は、ほらほらと林杏にも勧める。

 せっかく桂才が用意してくれたのだ、林杏にもしっかりと極上の味を知ってほしいものだ。


「遠慮することないのに」

「だから、あたしは別に」


 目を背けながらも、依依は卓上の杏仁豆腐の存在を明らかに意識している。

 そこで依依は気がついた。


(そっか。明梅が居ないのに抜け駆けできないと思ってるのね)


 幼い頃から共に灼家で働いてきた林杏と明梅には、強い絆がある。

 明梅に隠れて高級甘味を味わってはいけないと、林杏は必死に我慢しているのだ。


「ご安心を。留守番中の明梅の分を含め、お土産用の杏仁豆腐も用意しています」


 そこに、桂才が信じられない言葉を放つ。

 まさに至れり尽くせり。これにはさすがの林杏も目を見開いている。

 だが、やはり匙を手に取らないので、依依は彼女の匙で寒天をすくってやる。


「ほら、口開けて。おいしいわよ」


 それでも林杏は躊躇っている。

 だが、依依が引かないと理解したのだろう。やがて、根負けしたようにおずおずと口を開けた。

 小さな口で、匙の中身を頬張る。つり目がちな林杏の目元が、ゆるりと和む。


「……甘い。おいしいです」

「ね。ほら、あーん」

「じ、自分で食べられま――、うっ!」


 唐突に林杏が呻き声を上げた。


「林杏!? どうしたのっ」

「今……突然、胸に痛みが走って……」


 はあはあ、と荒く息を吐く林杏の顔色はすっかり白い。

 匙を置いた依依は、林杏の背を優しく撫でてやる。心臓の疾患となると命の危険がある。

 灼夏宮で共に過ごしていた間、林杏にその兆候はなかったように思うのだが……。


「も、もう治まりました。大丈夫です」

「……そう? ならいいんだけど」


 ふと、依依は何者かの殺気だった視線を感じた。

 素早く顔を上げると、林杏のことを親の仇のように睨みつけていた桂才が、ふいと目を逸らす。

 しかも何か、人形のようなものを懐に隠し持っていたような。


(…………え、まさか)


「潮徳妃。今、林杏を呪ったりしました?」


 ふるふるふる、と首を横に振る桂才。


「呪ってません」

「本当ですね?」


 依依に嘘は吐きたくなかったのか。

 無表情の中に、桂才はとたんに困惑を浮かべる。


「呪っては、いません」


、って何!?)


 ちょっと変わっているけれど、基本的には無害な桂才。

 その認識は改めなければならないかも、と思う依依であった。



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