第58話.新たな妹
――知らない間に皇妹にも、依依の正体が知られている。
(これ、どういうこと?)
後ろの宇静を見るが、彼も当惑した様子。
話したのは宇静ではないらしい。なら、誰が依依の正体を瑞姫に明かしたのか?
(陛下、純花、
秘密を漏らしそうな人は思いつかないが。
「仙翠から聞いてます。あなたは灼賢妃の姉君なのでしょ?」
あっさりと犯人の名前が告げられる。
やはりものすごく気まずげに、仙翠が目を逸らした。
(なんか樹家の血が流れる人たちって、ちょっと独特だわ……)
わりとおっとりしているところがある桜霞や飛傑。
一見すると冷徹だが、身内に甘めの宇静や仙翠。
その二種類のうち、瑞姫は前者に近いのだろうか。
なんて考える依依にはもちろん、自分が最も奇抜だという自覚はなかったりする。
黙り込む依依の前で、瑞姫が細い両手をかざす。
「安心して。絶対に誰にも言いませんっ。あなたに危害を加えようとする人が居たら、なんとしてでも助けるし……もちろん、お母さまの説得も辞しません」
瑞姫のいう母とは、つまり皇太后のこと。
後宮は飛傑の所有ではあるが、その実質的な支配者であり管理者なのは皇太后である。
まだ出会ったことはないものの、依依としては絶対に敵に回したくない相手だ。
「……皇太后は瑞姫には特別甘いぞ」
宇静がぼそりと呟く。
女が武官になり、しかも妃の身代わりとして後宮に何度も侵入しているのは、皇太后に知られれば確実に重罪に処されるだろうが――そんな皇太后の説得にも、瑞姫は自信があるようだ。
(こういうところは、陛下に似てるのかも?)
人好きのする笑みを浮かべていても、その下にしっかりと牙を隠し持っている。
「瑞姫様。私のことは二の次で構いませんので、純花に何かあったときはどうかお力を貸していただけませんか?」
依依の言葉に、瑞姫が目を見開く。
それから可憐な姫は、笑顔で頷いた。
「ええ、分かりました。証文でも書いたほうが安心する?」
「その必要はありません」
そもそも彼女との交渉事のために、依依は恋華宮にやって来たわけではないのだ。
それを思い出したのか、瑞姫も目元を和ませる。
「仙翠、お茶を。しばらく二人とお話ししたいわ」
「しかし瑞姫様。ご体調が……」
「今日は調子がいいから平気」
仙翠が部屋を出る前に、一瞬だけこちらを鋭く睨む。
(もし姫に何かあったらただじゃ済まさない、って顔ね)
仙翠たち女官が過保護な理由は、瑞姫が病弱だからというだけではないだろう。
蝶よ花よと慈しまれて育った少女。幼げで天真爛漫だが、優しさも持ち合わせている。
人を惹きつける確かな魅力がある。そんな瑞姫だからこそ、彼女たちは溺愛しているのだ。
(それに、陛下や将軍様も)
「こんなところじゃ息が詰まるわ。庭が望める露台で話しましょう」
案内しようとする瑞姫に近づいた宇静が、その小さな身体を軽々と抱き上げる。
「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げた瑞姫が、宇静の首にしがみついた。
「
「はしゃいだらまた熱を出す。大人しくしろ」
「もうっ……」
頬を膨らませつつ、瑞姫は嬉しそうだ。
きっと日常茶飯事なのだろう。そんな二人のことを、依依は微笑ましく見つめた。
「……なんだその目は」
「仲が良いのはいいことだなと思っただけです」
「馬鹿にしているのか?」
「いいえ。将軍様が優しい方だというのは、前から知っていますし」
宇静が驚いたように目を見開く。
(正しくは、優しいところもある、だけど)
首の脈を噛まれそうになった一件は決して忘れない依依だ。
振り返った瑞姫が、それは嬉しそうに二人を交互に見る。
「あのね、依依さま。小兄さまはいつも依依さまのことばかり話すんです。依依がこう言った、こうした、って」
「お前がせがむからだろう」
「小兄さまは本当に、依依さまのことを気に入ってらっしゃるの。わたし、それが嬉しくて」
「気に入っているのではなく、気にせざるを得ないだけだ」
呆れる宇静だが、瑞姫は聞く耳を持たない。
「ねぇ依依さま、今日は良かったら小兄さまの話を聞かせてくださる?」
「将軍様の話を、ですか?」
こくこく、と頷く瑞姫。
「それならお安い御用です」
兄のことが知りたいとは、可愛らしい妹心ではないか。
飛傑からは自分の武勇伝でも語ってやれなどと言われて困惑していた依依だが、清叉寮での宇静の様子であれば話せることはある。
そのあとは、三人でしばらく秘やかな歓談のときを楽しんだ。
「将軍様は自他共に厳しい方で、よく他の武官をぶん投げているんですよ」
「ぶん投げる? 宙に投げてしまうの?」
「ええ。たまに屋根に乗ってしまうことも」
「おい、話を盛るな」
「すごいわ。小兄さまは鬼将軍なのね」
「あとは、えっと……前に按摩をしてさしあげたときは」
「按摩! 依依さまが小兄さまに按摩をしたの?」
「なぜよりにもよってその話を……」
「いいじゃない。詳しく聞かせて依依さま」
「話すな。その話はやめろ」
半刻にも満たない間だったが、それは依依にとっても楽しい時間だった。
瑞姫は何度も大仰に驚き、喜んでいた。宇静は依依の選ぶ話題に何かと文句をつけつつも、いつもよりずっと饒舌で、はしゃぐ瑞姫のことを目を細めて見守っていた。
ひとしきり話して、お茶も冷めてしまった頃。
――こほ、と小さく瑞姫が咳き込んだ。
それまで黙って給仕に徹していた仙翠が、さっと顔を強張らせた。
「これ以上、風に当たってはいけません。お部屋に戻りましょう」
「……そうね。そうしたほうが良さそう」
頷く瑞姫の顔は真っ青になっている。そんな瑞姫を、丁寧に宇静が抱き上げる。
その上から仙翠が上着を被せると、小さな瑞姫がふるりと震えた。
今日は調子がいい、と話していたのは真実だったのだろう。それほどまでに瑞姫の顔色は悪い。
しかし青白い彼女の額にだけ、美しい模様が描かれている。
依依はようやく、気がついた。
(花鈿をしているのは、それ以上の化粧をする体力がないからなのね……)
花鈿に人の視線を寄せつけ、具合の悪さを悟られないようにする意図もあるのだろう。
髪も結わえておらず、飾りや簪もつけていない。きらびやかな後宮に住みながら、瑞姫は姫らしい豪華な衣を着る機会もないのだ。
怪我はともかく、依依は今まで病気や風邪とは無縁に生きてきた。
瑞姫の年の頃は野山を駆け回り、自分で狩りもしていた。手足を動かして遊び回るのが楽しかった頃だ。
そんな時代を、瑞姫は寝室に籠もりがちで過ごしているのだ。
「ごめんなさい。もっと一緒に過ごしたかったのに」
「謝る必要はありません、瑞姫様」
「今日はお話しできて、すごく楽しかった。……それで依依さま。不躾だろうけど、お願いがあって」
「なんでしょうか」
促すと、瑞姫はこてりと首を傾げて。
「あのね。わたしの、
意外な申し出である。
宇静が窘めるような目を向けるが、瑞姫は発言を撤回しない。
依依はどう答えたものか悩んだ。
皇妹に姉と呼ばせるとは、断っても頷いても失礼に当たる気がするのだが。
「血の繋がった姉は、全員がここを出て行ってしまいました。わたし、とても寂しくて……」
しかし瑞姫は弱々しく涙までにじませている。
こう言われては、さすがに依依には断りようがない。
「私的な場でということでしたら、構いませんよ」
「本当!? 嬉しい……! ありがとう義姉さま!」
瑞姫がきらきらと顔を輝かせる。
(なんか、ちょっと発音がおかしい気もするけど)
依依の気のせいだろうか。
別れ際、瑞姫が心配そうに声をかけてきた。
「義姉さま。また、会いに来てくださいますか?」
「ええ、もちろんです」
「嬉しい。そのときはもちろん、護衛として小兄さまも付き添ってね? 約束よ?」
「ああ。分かった」
妹には甘い宇静が、あっさりと頷く。
こうして依依に、新しい妹ができたのだった。
……その後、依依と宇静の二人が去った恋華宮では、こんな会話が繰り広げられていた。
「仙翠、やったわ。うまくいきそうよ」
「そうですね、瑞姫様」
「わたしね、大好きな小兄さまに幸せになってほしい。だから二人の仲をわたしが取り持つの」
「興奮してはまた熱が出ます」
「うふふ、うふふふ。依依さまには名実ともに、わたしの
そんな悪巧みについて、そのときの依依は知る由もないのだった。
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