第57話.いざ、再びの後宮へ
女官服に着替えた依依は、抜け道を使って後宮の外れへと到着していた。
人目がないのを確認してから身体を地上に出すと、土埃を払って歩き出す。
というのも時間がない。今日はさっそく純花として瑞姫に挨拶に行く予定なのだ。
(一応、将軍様も付き合ってくれるらしいけど)
瑞姫から直々にお願いされたとかで、挨拶には宇静が付き添ってくれる。
彼は寝物語を聞かせるほど瑞姫と親しいというから、何かしら問題が起こってもどうにかしてくれるだろう。
なんて呑気に考えながら見慣れた道を歩き、依依は灼夏宮へと到着した。
「ご無沙汰しております。
慌てて言い直した林杏と一緒に、言葉を持たぬ明梅がぺこりと頭を下げる。
身長差があり凸凹な女官たちは、依依にとっても頼りになる二人だ。
「林杏も明梅も久しぶり。またしばらくよろしくね」
若干、林杏がいやそうな顔をした気もするが、おそらく見間違いだろう。
「さっそくで悪いんだけど着替えたいわ」
「承知しました。こちらに」
依依ひとりでは妃嬪服に着替えることもできない。
そこまでは落ち着き払っていた林杏だが、その態度は数分と続かなかった。
「ああっ。何度も梳かして香油で艶めかせた髪の毛が、こんなぼさぼさに! 枝毛だらけに!」
「また日焼けしましたね!? あれほど日除けしてくださいとお伝えしたのに信じられない!」
「信じられなああああいっっ!!」
ひとりで阿鼻叫喚する林杏の声は、灼夏宮の外にまで響いていたらしい。
すったもんだの末、なんとか準備を終えた依依がふらふらと宮を出ると、すでに門の脇で待っていた宇静が振り返った。灼夏宮には人手が足りず、客人を案内する女官も居ないのだ。
上官を待たせてしまったと慌てる依依だったが、今の依依は純花を演じている。
どこで誰が見ているか分からないので、謝罪ではなく軽い挨拶に留める。
「将軍様、お待たせしました」
「……ああ。騒がしかったな」
林杏は赤い顔をしている。
しかし宇静は特に叱る気はないようで、依依のことをまじまじと見つめている。
「どうされました?」
「いや。やはり、印象が変わるなと」
そりゃそうだと依依は思う。
思ったついでに、いつぞやのやり取りを思い出した。
「将軍様はどちらのほうがお好みですか?」
宇静がただでさえ細い目を、さらに細くする。
あまりの迫力に林杏と明梅が縮み上がってしまったので、依依は素早く切り上げた。
「なんでもありません。行きましょう!」
何か言いたげだった宇静が頷き、先導するように歩き出す。
向かう先は瑞姫の住まう恋華宮だ。
道すがら、宇静はいくつかのことを依依に教えてくれた。
――それは、飛傑がまだ太子であった頃。
彼の兄弟のほとんどは国公として各地に封ぜられ、姉妹は他国か所領へと嫁いでいった。
その中で宇静は、周囲の人間に陸家の一員と認められておらず、飛傑の傍に将軍職を与えられ留まった。
瑞姫はといえば幼いため、ひとりだけ後宮に残っていたが、数年前から体調を崩したために、生まれ育った宮殿で今も暮らしているそうだ。
「今日は瑞姫が
そう話を作ってもらえているならありがたい。
あらゆる陰謀の渦巻く後宮である。純花が下心を持って瑞姫に近づこうとしている、と誤解されては堪ったものではない。
(ううん。どちらにせよ、曲解する人は居るわよね)
純花を狙っていた
捕縛された紅桃たちは今も投獄されている。李家にも取り調べの手が入っている真っ最中だ。それらの事実は伏せられており、一部の人間しか知らないことである。
飛傑は純花の立場を鑑みて、あれから何度か灼夏宮に顔を見せたようだ。
といっても昼間に訪れ、少し話をしたら帰るそうだが、そのおかげで呪われた妃という噂は消えつつある。
だが今も、純花の後宮内での立場が安定したわけではないのだ。
彼女の名を借りる以上、依依も気を引き締めねばならない。
「妹のことで面倒をかける」
そんな宇静の言葉に、依依は少なからず驚いた。
「いいえ。でも私と会うのが、瑞姫様にとっていいことなのか分かりませんが」
「瑞姫はお前に憧れているから、きっと気力が増すだろう。それ以外のことは気にしなくていい」
宇静なりに依依を気遣ってくれているようだ。
「憧れている、というのが私にはよく分かりませんが……」
依依は首を捻る。
姫君が憧れを抱くような要素が、自分にあるとは思えないのだ。
(たぶん将軍様、相当に話を盛ったのね)
瑞姫を励ますために、あることないこと言って会話を盛り上げたのではなかろうか。
それを踏まえると、本物の依依を前にして瑞姫ががっかりして気落ちしてしまう気もするのだが……。
「行けば分かる」
そう言い切られれば、頷くしかない依依だった。
石畳の路を進み、貴妃・桜霞の住まいである
皇妹が住まう宮殿というだけあり、豪奢な建物だ。門扉を守る宦官に宇静が声をかけると、宇静と依依だけは中に入れるという。
「林杏たちは、ここで待っていてくれる?」
機嫌を悪くした風でもなく、林杏と明梅が頷く。
宇静がよく立ち寄るからか、案内役は寄越されなかった。
季節の花が咲く美しい庭を横目に、二人は回廊を進んでいく。庭には験担ぎのためか、尾羽を垂らした白孔雀が数羽歩き回っていた。
応接間ではなく寝室へと向かっているようだ。瑞姫はそれほど身体を悪くしているのだろう。
そうして導かれた寝室には、天蓋つきの寝台が置かれていた。
仙翠に肩を支えられ、上半身のみ起こした彼女こそが瑞姫だろう。
「お目にかかれて光栄です、瑞姫様」
拱手しつつ依依は、その姿を片目でちらりと見つめる。
十一歳になると聞いていたが、身体が小さいのでそれよりも幼く見える。
華奢な背中を覆う青い髪の毛と、青みがかった大きな瞳。
化粧っ気のない肌はひたすらに青白いが、額に施した桜の
そして何よりも。
(すっっっごく可愛いんだけど……)
皇帝の所有たる後宮は美女揃いで、そこらを歩く女官も美人だらけだ。
その中でも頂点に君臨する桜霞や純花といった四夫人はずば抜けた美貌の持ち主なのだが、瑞姫は彼女たちに匹敵するほど可憐だった。
あと数年も経てば、どれほど美しく成長するだろうか。
すると見目麗しい儚げな姫が、すっくと起き上がった。
「……まぁ。まぁまぁ!」
小鳥が鳴くような小さな声だったが、その響きは透き通るように愛らしい。
「噂に名高い赤い髪。それに赤銅色の瞳! まぁあ!」
「瑞姫様、お身体に障ります」
「こんな格好でごめんなさい。でもずっと会ってみたかったの!」
慌てて仙翠が止めようとするが、瑞姫はお構いなしに寝台を降りてきてしまう。
そうして純花に扮する依依を、きらきらと輝く瞳で熱く見つめると。
「あなたが、
思いがけない言葉に、依依は危うく咳き込みそうになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます