第二部
第53話.依依の朝
あの鳥を見たのは、今から二年ほど前のことだったか。
あまり物覚えが良いほうではないけれど、育ての親である老女との日々を、
窓の外にその姿を見たとき。
建て付けの悪い戸を壊すような勢いで、依依は物置同然の小屋を飛び出していた。
「見て、
空を指差す依依の後ろから、あきれ顔の若晴が外に出てくる。
あの頃、若晴はすでに足を悪くしていたが、杖を使ってなるべくひとりで歩くようにしていた。依依はいつも心配していたが、気丈な若晴は、娘に文字通りおんぶに抱っこされるのは我慢ならなかったようだ。
「なんだい、依依。急に騒ぎ出して」
「そりゃあ騒ぐわよ。だって鳳凰よ、鳳凰!」
ほら見てよ、と手を伸ばす依依の目線の先に、その姿があった。
山の頂上付近を旋回している鳥に、依依は頬を紅潮させる。
(なんて赤い鳥……いいえ、橙色にも見えるわね!)
光の加減で七色に輝くように見える、不思議な翼だ。
だがその神秘的な鳥は、どう考えても昔話に登場する鳳凰そのものである。
隣近所の子どもたちや、畑仕事に従事するおじさんやおばさんたちも、みんな揃って空を眺めている。
鳳凰の出現は古来より、吉兆の証とされている。泰安な世にしか姿を見せない生き物なのだそうだ。
しかし依依は思う。第三十代の皇帝は愚帝だとまことしやかに囁かれる人物。数年前の飢饉のときも対策が遅れ、数え切れないほどの民が飢え死にした。
(今も泰安とは、ほど遠いと思うんだけど……)
その数日後、皇帝が身罷ることになるとは、当時は誰も知らなかったわけだが――。
(でも、もっと近くで見てみたいかも!)
神秘の霊鳥であれば、あるいは足を悪くした若晴のことも快復させられるかもしれない。
考えたらとにかく一直線の依依である。それはとても魅力的な考えに思えた。
「私、今すぐ捕まえに行ってくるわ。夕餉までには戻ってくるから!」
「馬鹿言うんじゃないよ」
舌なめずりと共に駆け出そうとした依依は後ろからぐいと引っ張られ、たたらを踏む。
何かと思えば、襟に杖を引っかけられていた。俊敏な依依にそんな技を仕掛けられるのは、もちろん若晴だけだ。
「止めないで若晴。私は鳳凰にも負けないわ」
「天下広しといえども、鳳凰と戦おうとするのはあんただけだよ」
わざとらしくこめかみを押さえている若晴。
「あのね、いいかい? あれは鳳凰じゃなくてね……」
依依を説得させるためだろう、若晴はそれっぽい作り話を始める。
いつも話を最後まで聞かないと叱られる依依は、とりあえず大人しく聞いていたのだったが、やがて「あっ」と気がついた。
老女の長話を聞いている間に、なんと鳳凰はすっかり姿を消してしまっていたのだ――。
◇◇◇
――ぱちり、と依依は目を開ける。
いつも通りのすっきりとした目覚め。
しかし、すぐに起き上がる気がしなかったのは、夢の名残を惜しんだからだろうか。
「若晴の夢なんて、初めて見たかも」
夢に見るほど恋しいかと言われれば、否定できない。
若晴は依依にとって育ての親であり、師であり、かけがえのない家族だったのだ。
だが泣きたいような気持ちにはならない。懐かしい日々を、ますます愛おしく思うだけだ。
今もきっと、若晴は依依のことを見守ってくれている。
呆れたり、顔を覆ったり、怒ったりしながらも、笑顔で見ていてくれるだろう。
(まだ故郷には、戻れそうもないけど)
後宮で暮らす生き別れの妹と会えたなら、若晴の墓参りをして報告しようと決めていた。
しかし妹は依依が傍に留まることを望んでくれたし、この場所でたくさんの知人もできたから。
「今日もいい天気だわ!」
窓を開けた依依は、大きく伸びをする。
雲ひとつない青空に鳳凰の姿はなくとも、ずっと平和な宮城の一角で。
皇帝つき武官である楊依依の朝は、こうして今日も始まる。
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