第52話.続いていく日々

 


 純花チュンファと服を交換した依依は、庭から清叉寮の建物内へと入っていた。

 まずお礼を言うべき相手の顔が、頭の中にあったからだ。


 執務室の前を通りかかると、都合の良いことにその人物がちょうど中から出てきた。

 後ろには副官である空夜コンイェを連れている。


「将軍様」


 呼びかけると、宇静ユージンが目を見開く。


「……依依、か」


 なんと一目で分かったらしい。

 驚きつつ、にっこりと笑って依依は頭を下げる。


「昨日は――いえ。この数日間ありがとうございました、将軍様。副官様も」


 数日間、純花が元気に過ごせたのは彼らの庇護のおかげだ。

 飛傑フェイジェから説明を受け、宇静は最初から依依の知る以上のことを把握していたのだろう。

 だとしても彼が、依依たちに力を貸してくれたことは事実だった。


 依依としては昨夜、後宮内に宇静が純花を連れてきたことについてもお礼を言ったつもりなのだが……なぜか宇静の表情は浮かない。


 それを不思議に思っていると、


「いえいえ。自分は大したことはしていませんから。では、失礼しますね」


 用事でもあったのだろうか。空夜は真意の読めない笑みを浮かべ、廊下を足早に去って行った。

 残されたのは依依と宇静。宇静が何も言わないので、依依はどうしたものかと思う。


 すると宇静が、相変わらず眉間に深い皺を刻んで問うてきた。


「……どうだ、身体の調子は」


(身体?)


 なぜそんなことを訊かれるのか、依依にはよく分からない。


「いつも通り健康です。将軍様こそどうされました、目の下に隈がありますが」


 上官の問いかけである。素直に答えてみるが、宇静はなんとも言えない顔つきになってしまった。

 いったいどうしたのか。歯切れの悪い宇静に、依依まで何か心配な気持ちになってくる。


(拾い食いでもしたのかしら?)


 そう思っていると、ふいに宇静が顔を近づけてきた。


 調子の悪い彼が倒れたのかと思ったから、依依は避けなかった。

 むしろ受け止めるつもりで、一歩前に出た。


 思った通り、宇静の上半身がゆっくりと倒れ込んでくる。

 青みがかった黒髪が、依依の首筋にかかった。

 そのくすぐったさに片目をぎゅっとつぶると、宇静が耳元に囁きを落とした。


「…………陛下と結ばれたのだろう」


 そう呟いたきり、宇静は黙り込んでしまった。

 至近距離で目が合う。どこか苦しそうな双眸。


 そしてその言葉の意味が、ゆっくりと脳みそに浸透していき……。

 とんでもない誤解をされているのだと、ようやく理解する。



「そ――――んなわけないでしょうっ!?」



 その瞬間、依依は思わずけたたましい音量で叫んだ。

 枝に止まった鳥が驚いたのか、背後から一斉に羽ばたきの音がした。


「何?」


 どこか唖然としている宇静に構わず、依依はまくし立てた。


「故郷では小猿シャオユェンなどと呼ばれて育ってきたんです! 私では百戦錬磨の陛下のお相手なんて、とてもとてもとても務まりません!」


 実際に飛傑が手練れなのかどうかは知らない。というか考えたくはない。

 今なら、故郷のご近所夫婦になぜああも心配されていたのか、その理由がよく分かるのだ。

 依依が後宮に入るなんて言い出したものだから、二人はあんなにも取り乱していた。皇帝の妃嬪の地位を狙っているものと思っていたのだ。


「そうか」

「そうです!」


 ぐっと握り拳を作って、真っ赤な顔をしている依依を、じぃっと宇静が見下ろす。

 どこか安堵しているような、後ろめたそうな表情で。


「そうか」


 噛み締めるように、もう一度。

 呟いた宇静の手が、依依の頬を撫でた。


 冷たく乾いた手。

 そして、大きく骨張った武人の手だ。


 触れられたとたん、依依は思い出した。

 今朝、桂才グイツァイが言い放った言葉を。


 ――『あなたの魂は、熱せられては美しく色を変える、赤銅のよう……特別に気高く、凛としている。黄竜の血の流れる者が、惹かれるのは必然でしょう……』


大哥ダーグー、こちらでしたかー!」


 手の感触が離れた。


 明るい声に振り返る。こちらを見てばたばたと廊下を走ってくるのは牛鳥豚だ。

 鳥を先頭にやってきた彼ら。その後ろにはリャンもついてくる。なんだか既に依依には懐かしく思える面子である。


「駄目っすよ大哥、介添えがないとすぐ転ぶんだか……ら?」

「久しぶり、みんな」


 依依が親しげに片手をあげると、全員がぴたりと足の動きを止めた。


「えっ……えっ!? ほんとに大哥ダーグー!?」


 牛鳥豚の表情が驚きのあと、ぱぁっと輝く。

 鳥が率先してぎゃいぎゃいと騒ぎ立てた。


「この刃物みたいな目、勝ち気な顔つき、がっちりとした二の腕、飄々とした身のこなし……間違いねぇ、おれたちの大哥が戻ってきたんだ!!」

「記憶が戻ったんですねぇ!」

「良かったー! 良かったですー!」


 ばんざーいとはしゃぐ三人組。

 その後ろで涼は肩を竦めている。


「一時はどうなることかと思ったけど……良かったな、依依」

「うん。涼もありがとう」

「好青年! さっそく宴の準備だ、厨房係の先輩たちにお願いすんぞ!」

「はいはい」


 そこにまた、ばたばたと足音が近づいてきた。

 今度は誰だ、と目を向けると、見覚えのない顔だ。


 しかし上等な袍を着ていて――格好からして、どうやら宦官である。

 回廊を回ってやって来た宦官は、うざったそうに牛鳥豚を避けながら依依の目の前まで進み出てきた。


 そうして取り出したのは、長ったらしい巻物だ。

 それを広げながら、高々と言う。


「主命である。心して聞くように」


(主命? えっと……陛下の命令ってこと?)


 唖然とする依依の横で、宇静がまた渋い顔をしている。

 その場に居る全員からの注目を浴びながら、宦官が言うには。



「楊依依を、皇帝つき武官として任ずる!――以上!」



 すごく短かった。

 そして彼は満足そうに巻物をしゅるしゅると巻き取ると、颯爽と来た道を戻っていった。


 残された依依たちはぽかんとする他ない。


(ん? それってどういうこと?)


 困惑を感じ取ったのだろう。宇静が説明してくれる。


「清叉軍自体が皇帝直属軍であるのは分かっているか?」

「それは、一応」

「だがお前は今、皇帝つきに任ぜられた。今後は軍の一員ではなく、個人として陛下をお守りせよということだ。……とんでもない大抜擢だぞ」


 牛鳥豚が顔を見合わせる。

 爆発しそうな喜びの気配がうずうずしている。しかし一生懸命に頭の中を整理する依依は、まったく気がついていない。


「といっても四六時中、陛下につくことにはならないだろう。その役目は現状では俺が担っているし……必要のあるときに駆り出される、程度の認識でいいだろうな」


 ほうほう、と頷く依依。

 つまり今後、依依は清叉軍の一員というよりかは、個人として飛傑を護衛する。

 しかしその役割は清叉軍将軍の宇静の役割であるため、いつでも拘束されるわけではない、と。


 ……言うなれば、空き時間が増えるということだ。


(それなら、女官にもなれるかも?)


 これはさっそく純花に言ってみようか。

 いや、そもそもあの妹は依依を女官にする気満々だった気もする。これ幸いと勧めてくることだろう。


「すごい……! すごいっすよ、大哥!」

「さすが俺らの星、大哥!」


 きゃあきゃあ騒ぐ牛鳥豚を放置して、顎に手を当てて考える依依。


 すると、頭上から大きな溜め息が聞こえる。

 顔を上げると、腕組みをした宇静が横目でこちらを見下ろしている。


「お前。また何か、わけのわからないことを考えているだろう」

「どうしてですか?」

「そういう顔をしている」


 ぱちくり、と目をしばたたかせてから。


「そうですかね?」


 その鋭い指摘に、依依は悪戯っぽく笑ったのだった。












--------------------


読んでいただきありがとうございます。

これにて第1部完結です。


しばらくは書籍化作業に励みつつ、第2部の構想を練っていきたいと思います。

今後も頑張りますので、ぜひぜひ☆や♡で応援いただけたらありがたいです。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る