第51話.灼姉妹

 


 桂才グイツァイを置き去りに、依依が向かったのは後宮の外――清叉寮の純花チュンファの元である。


 捜すでもなく、人気のない清叉寮の庭にはひとり佇む純花の姿があった。

 呼びかけようにも、なんと呼べば分からなかった依依は彼女に駆け寄る。するとすぐに純花が振り返った。


 その手に豆豆ドウドウを抱えている。はっはと荒く湿っぽい息を吐く子犬と、依依の目が合う。

 しかし純花は最初から依依のことを見据えていた。


 豆豆を地面に下ろしてやると、自ら近づいてくる。

 そして開口一番、


「依依。あなた、わたくしの女官になりなさい!」


 などと元気良く宣ったのだ。


 依依は目を丸くする。驚いて、何を言おうとしたのか一瞬忘れてしまった。

 それくらい、純花はいつも通りだった。最初に出会い、身代わりになれと命じてきたときとなんらその態度には変わりがない。


「下手人は捕まえてくれたそうだけど、今後も命の危険があるかもしれないもの。あなただって肉の壁くらいにはなるでしょう?」


 依依が何も言えないのをいいことに、まくし立てるように純花。


「でも私は……というか、灼賢妃は妃嬪に戻られるんですか?」

「戻るも何も、わたくしはわたくしだもの」


(あら?)


 ふと、依依は気がつく。


 いつも通りだと思っていた。でも、違う。

 純花は前よりずっと明るい、吹っ切れたような顔をしていた。

 空元気のような振る舞いばかり見せて、気を張っていた少女は、今はどこか晴れやかな表情をしている。


紅桃ホンタオたちが捕縛されたから?)


 でも、果たしてそれだけなのか。

 不思議に思いながら依依は問う。


「私の人生がほしいと、仰っていたのに?」


 意地悪と思ったのだろうか。純花は拗ねたように唇を尖らせる。

 そういう顔をすると、とても武官の少年には見えない。ただの意地っ張りで可愛らしい娘の顔だ。


「……いいえ。あんなに暑苦しくてむさ苦しい場所、わたくしはいらないってだけ。それに……」

「それに?」

「あの人たちは、わたくしのことを大事にしていたわけじゃないから」


 純花は緩やかに笑っていた。

 言葉尻と異なり、どこか嬉しそうな笑みだった。


 それに絆されそうになるが、しかし、と依依は踏みとどまる。


「いや、でも……私、女官にはなれませんよ。そもそも清叉軍の武官なわけだし」

「あら。武官にもなって、女官にもなればいいじゃないの」

「え? そんなことできます?」

「妃の身代わりだってできたんだから、できるでしょ」


 どこまでも無邪気な純花だ。

 平然と無茶なことを言う。こういうところは名家のお嬢様っぽい。


(他人事だと思って、いけしゃあしゃあと)


 呆れた目を向けていたら、純花は肩を竦めてみせた。



「わたくしを救ってみせたんだもの。もう少し胸を張ったらどうなのよ、お姉様」



(…………え?)


 依依は耳を疑った。

 今、信じられない言葉が聞こえた気がする。

 だが、あまりにも何気ない発言だったので、いっそ聞き間違いかとも思う。


 呆然と見つめると、純花は気まずげに目を逸らした。

 その頬にはほんのりと熱が灯っている。それで分かった。


 確かに、純花は依依のことをそう呼んだのだと。


「……今、お姉様って」

「き、気のせいでなくって? わたくしは一人っ子よ、姉なんて居ないわ」

「そうだね、純花」

「ちょ、ちょっと! 馴れ馴れし――」


 駆け寄って、思わず純花を抱きしめた。

 びっくりしたように、純花は息を止める。その全身はかちんこちんに緊張している。


 それでも、宥めるように髪の毛を撫でていたら、両手がおずおずと依依の背中に回されてきた。

 しがみつくような手の弱さを、愛おしいと思う。涙がにじむ視界の端では、豆豆が楽しそうに跳ね回っていた。


(陛下が? いえ……将軍様?)


 誰の計らいかは知らない。それでも、感謝を覚えずにはいられない。

 最初は、遠目にでも彼女の幸せを確認できればそれで十分だと思っていた。

 それなのに、純花は依依のことを姉と呼んでくれた。なんの証拠もないけれど、そうだと認めてくれた。


「……誰かに、こんな風に抱きしめられるなんて、初めて」


 どこかぼんやりと呟く純花の身体を、依依はますます強く抱きしめた。

 双子を産み落として、間もなく身罷ったという思悦スーユエ。家族の温もりを知らない純花に、それを教えるように。


「う――っちょっと苦しいってばっ、依依!」


 はっと我に返る。

 依依が本気で力を加えれば、細くて小さい純花はぺしゃんこである。気をつけねば。

 そんな心の声が聞こえたわけではないだろうが、純花はちょっとだけ怖ろしげな顔をしていた。


「……もうっ、仕方ないから許してあげる。二人のときは好きに呼べばいいわ」

「なら二人きりのときは、純花も私を姉と呼んでくれるのね?」

「……うん、お姉様」


 上目遣いで見上げてくる純花。そんな妹の頭を、依依はよしよしと撫でてあげる。

 子ども扱いされていると分かりつつも、いやではないのでさせるがままの純花である。


「私、純花に話したいことがまだたくさんあるのよ」

「そんなの、わたくしだって。……でも今日は、とりあえず解散よ」

「え?」


 唐突な言葉に、ぱちくりと目をしばたたかせる依依。

 依依の手から抜け出して、純花が言い放つ。


「依依は清叉寮にさっさと戻って。記憶を取り戻したって、みんなを安心させなきゃ」


 確かに純花の言う通り、依依は現在も様々な人に心配をかけているのだった。

 宇静や空夜コンイェは事情を把握しているが、牛鳥豚やリャンを始めとする同僚たちは、純花のことを記憶を失った依依だと思っていたのだ。


 いや、それでも十分馴染んでいたような気もしたが……。


「純花はどうするの?」

「わたくしは後宮に戻る。林杏リンシン明梅ミンメイとも話してくるわ。二人にはいろいろと迷惑をかけたし」


 前向きな言葉に、依依は頷いた。

 林杏たちも、純花の帰りをそわそわと待ち望んでいることだろう。


 実際は飛傑フェイジェに依依の行方を問い質され、青い顔をして並んでいたわけだが……それは依依のあずかり知らぬ所である。


「それじゃ服を交換しよっか、純花」

「ええ。でも……どこか空き室を探さないと」


 清叉寮の建物内を二人で捜索しつつ、依依は思う。


 できることなら、もう少しの間だけ。

 この危なっかしい妹のことを、近くで見守りたいと。



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