第46話.灼依花
そんな
だから今は大人しく、彼女の喚くような声に耳を傾ける。
「それなのに妹の
「死んだ妹の身代わりとして、
「そうして実家に戻った私に向かってね、当主である母は言ったのよ! 『どうしてお前が生きていて、美しい思悦が死んだのだ』――って」
紅桃の身体が小刻みに震えている。
目の焦点は合っていない。声色は激しかったが、対照的に表情にはまるで生気がなかった。
それでも紅桃は、突き動かされるように唇を開き直す。
「……後宮を出された母は、地方の文官に嫁いだの。でもその頃にはもう、心がおかしくなってしまった。そんな母が希望を託したのが、私。私は皇帝に愛されなかった母から、後宮入りを強く望まれた」
その文官というのが、李家の人間だったのだろう。
今も紅桃の両脇に立つ女官二人も、おそらくは李家の息のかかった人間だ。
桃花に命令されたのか、あるいは
「私に男の好む纏足を行って……散々、思悦への呪詛の言葉を吐き続けて……痩せこけた母は最期に、『思悦を苦しめて』と言って息絶えた。私が五歳の頃のことよ」
そう呟く紅桃の足元は覚束なかった。
纏足した足で立ち続けるのは辛いはずだ。だが遠慮がちに伸ばされた女官の手を、紅桃は振り払った。
無表情だったその顔に、嘲りの笑みが浮かぶ。
「だから
依依はといえば、溜め息を吐くしかない。
これでは純花はひどいとばっちりだ。
「そのためにあなたは純花の食事に毒を盛り、部屋に毒虫を放ち、宮殿を呪符で呪い、近頃は呪いの文まで送りつけてきたのね。そうして、帝の足を遠ざけた」
「……は?」
ひとつずつ確認したつもりが、紅桃がぽかんとする。ずいぶんと間の抜けた表情だった。
「私がやったのは食事に毒を入れるのと、虫を部屋に放ったことだけよ」
(……ん?)
この期に及んで、紅桃は一部の罪を認めないようだ。
ちょっと不審に思うが、反応は返さない。それよりも重要なことがあるからだ。
「それで? 今夜はどうして灼夏宮に来たの?」
「……そんなの決まってる! あんたを殺すためよ、純花!」
紅桃が吠える。
二人の女官が依依に向かって槍を構える。正面から突撃してくるつもりらしい。
「陛下はまだ、灼夏宮にはいらっしゃってない……今ならあんたを殺せるわ、純花。惨めな女のまま、誰にも愛されない女のまま、後宮を去りなさい!」
「いやよ」
「――は?」
「あの子は惨めじゃない。それにあの子は二人もの女官に愛されて、大切にされている。あなたとは違うわ、
あくまで静かにそう言い返す依依に、いよいよ紅桃は我慢が利かなかったらしい。
「さっさとあの女を殺しなさい!」
彼女の号令と共に、女官たちが槍を手に走り出す。
それを依依は、庭石に座ったまま迎えた。それを目にした紅桃がほくそ笑む。恐怖のあまり、動けないのだと思ったのだろう。
だが、それは大いなる誤解だった。
「えっ……」
二人の女官が目をむく。
目の前の光景が信じられないのだろう。
というのも、依依は突き出された二本の槍の穂――ではなく、柄を握り締めてその動きを止めていたからだ。
焦った二人が依依の手から引き抜こうと、あるいはそのまま突こうともがくのだが、槍はもはやびくともしない。
(暗器に槍を選ぶ時点で、浅はかすぎるわよ)
紅桃か李家の甘言につられて、悪巧みに加担しただけの素人なのだろう。
武術の心得のない一撃はあまりに無鉄砲すぎて、避ける必要もなかった。
たじろぐ彼女たちに目を細め、依依はまず右手で握る槍を無造作にへし折った。
がきり、と鈍い音が響く。
「! ひっ……」
半ばで武器を折られた女官の顔がひきつる。
次に、左手で握っていた槍を引き寄せ、女の肩は後ろへと軽く蹴飛ばす。少々荒っぽいが、戦意を折るには手っ取り早い。
思った通り勝手に慌てふためいた女官たちは、争うように逃げていった。
紅桃はといえばその場に取り残され、木を支えに立ったまま呆然としている。
彼女に近づき、その喉元に槍の穂先を突きつければ、「ひっ」と息を呑み、紅桃はその場にへたり込んだ。
「私は純花じゃないわ」
もはや言葉を発せないだろうと思いながらも、そう伝える。
すると紅桃は意地なのか執念なのか、目を見開いたまま小さく呟く。
「……じゃ、じゃあ、あんたは誰だっていうのよ……」
その問いに答えるため、依依は鋭く息を吸い込んだ。
月光を流す赤い髪の毛が、風になびく。
舞い散る桜の花吹雪を背にして、口を開く。
「――我が名は
「……ッッ!」
咆哮じみた名乗りに、空気がびりびりと震える。
その名前を依依が使うのは、初めてのことだった。
面影すら知らない母が名づけた名前だ。だが今は、その名前の効力が必要だと思った。
「妹に指一本触れることをお前には許さん! 二度と純花に手を出すな、愚弄するな! もしこれを破るならば、この矛先がお前の喉を貫くだろう!」
「ひ……、あぁ……っっ」
紅桃の身体ががくがくと震える。
当初の予定では、名乗るつもりはなかった。だが、そうせずにはいられなかったのだ。
(すっごく、すっごく、むかついたから!)
思悦を憎み、挙げ句の果てに我が子に呪いを残して死んでいったという桃花。
彼女に会ったことはないから、その人となりは分からない。
思悦と比較される日々が、どれほどの苦痛であったのか。
後宮での暮らしがどれほど彼女を傷つけ、追い詰めたのか。
それは分からない。聞きかじった話だけで知ったかぶりするつもりもない。
だけど、知っていることもあるのだ。
(お姉ちゃんは、妹を慈しむものでしょう!)
長く生きられないと宣告されていた思悦は、それこそ決死の思いで依依たちを産んだはずだ。
桃花に役目を押しつけるために、帝以外の相手を選んだわけではないだろう。そんな妹を恨むのも憎むのも筋違いだ。そんなのはあまりにも悲しすぎる。
(お母さんは、子どもを愛するものでしょう!)
そんな母親の怨嗟に巻き込まれたのが、目の前で涙を流している紅桃だ。
紅桃にはなんの責任も罪もなかった。それなのに桃花は幼かった紅桃に、自身が果たせなかった夢を押しつけた。
依依にとっての母親は、育ての親である
厳しい母だったが、たくさんの愛情を注がれて依依は育ってきた。血のつながりなど関係なく、若晴は依依を大切にしてくれた。
桃花にも、そんな道があったはずだ。選ぶことができたはずだ。
だから依依は、彼女にむかついている。目の前に居たら、こんなに落ち着いて槍など握ってはいられなかっただろう。
「依依」
依依ははっとした。
呼びかけに顔を上げれば、音もなく歩み寄った宇静が紅桃を捕らえていた。
木々の間には、縄で縛られた二人の女官が転がっている。それを目にして、依依は一息吐いた。
「ありがとうございます、将軍様」
「……お前、いつも無茶ばかりするな」
「いえ、それほどでも」
呆れたように溜め息を吐かれて、笑いかける。
声も上げずに泣き続ける紅桃の腕を、宇静が背中に回して縛る。それを眺めながら、依依は思う。
(思悦は自分の娘たちに、依花と純花と名づけた)
きっと思悦は、自身の姉である桃花を思い、そう名づけたのではないか。
それもやはり推測に過ぎなかったけれど、紅桃に――彼女の中に巣食う桃花に、届けばいい。
これで紅桃は救われるのか。それは、依依には分からない。
依依は正義の味方ではない。あくまで純花の味方として後宮に居るから、彼女に仇した以上は紅桃の味方になることはできない。
それでも、少しでもその闇が晴れればいいと願わずにいられなかった。
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