第46話.灼依花

 


 そんな紅桃ホンタオを哀れに思う気持ちは、少なからず依依にもあった。

 だから今は大人しく、彼女の喚くような声に耳を傾ける。



「それなのに妹の思悦スーユエは、赤い髪を持つ美しい女で……誰からも愛されていて……両親や周りの人間、誰もが思悦の後宮入りを望んだわ。皇后となることを望まれたわ。それなのに思悦は、小汚い旅の男なんかと結ばれた。そしてまた、嫌がらせのように自分によく似た赤い髪の子どもを産み落として、身勝手にも死んだのよ」


「死んだ妹の身代わりとして、は後宮入りを余儀なくされた。それでも四家の女だったから、賢妃の称号は得たわ。……でも、陛下は見向きもしなかった。私は一度も声をかけられることなく、惨めに後宮を去った」


「そうして実家に戻った私に向かってね、当主である母は言ったのよ! 『どうしてお前が生きていて、美しい思悦が死んだのだ』――って」



 紅桃の身体が小刻みに震えている。

 目の焦点は合っていない。声色は激しかったが、対照的に表情にはまるで生気がなかった。


 それでも紅桃は、突き動かされるように唇を開き直す。


「……後宮を出された母は、地方の文官に嫁いだの。でもその頃にはもう、心がおかしくなってしまった。そんな母が希望を託したのが、私。私は皇帝に愛されなかった母から、後宮入りを強く望まれた」


 その文官というのが、李家の人間だったのだろう。

 今も紅桃の両脇に立つ女官二人も、おそらくは李家の息のかかった人間だ。

 桃花に命令されたのか、あるいは桃花トウファの企みに乗った夫が用意した人材なのか、それは依依には分からなかった。


「私に男の好む纏足を行って……散々、思悦への呪詛の言葉を吐き続けて……痩せこけた母は最期に、『思悦を苦しめて』と言って息絶えた。私が五歳の頃のことよ」


 そう呟く紅桃の足元は覚束なかった。

 纏足した足で立ち続けるのは辛いはずだ。だが遠慮がちに伸ばされた女官の手を、紅桃は振り払った。


 無表情だったその顔に、嘲りの笑みが浮かぶ。


「だからは、そう、思悦の忘れ形見であるあんたを代わりに傷つけることにした。母と同じように――いいえ。もっともっと惨めな妃に落としてやったのよ!」


 依依はといえば、溜め息を吐くしかない。

 これでは純花はひどいとばっちりだ。


「そのためにあなたは純花の食事に毒を盛り、部屋に毒虫を放ち、宮殿を呪符で呪い、近頃は呪いの文まで送りつけてきたのね。そうして、帝の足を遠ざけた」

「……は?」


 ひとつずつ確認したつもりが、紅桃がぽかんとする。ずいぶんと間の抜けた表情だった。


「私がやったのは食事に毒を入れるのと、虫を部屋に放ったことだけよ」


(……ん?)


 この期に及んで、紅桃は一部の罪を認めないようだ。

 ちょっと不審に思うが、反応は返さない。それよりも重要なことがあるからだ。


「それで? 今夜はどうして灼夏宮に来たの?」

「……そんなの決まってる! あんたを殺すためよ、純花!」


 紅桃が吠える。

 二人の女官が依依に向かって槍を構える。正面から突撃してくるつもりらしい。


「陛下はまだ、灼夏宮にはいらっしゃってない……今ならあんたを殺せるわ、純花。惨めな女のまま、誰にも愛されない女のまま、後宮を去りなさい!」

「いやよ」

「――は?」

「あの子は惨めじゃない。それにあの子は二人もの女官に愛されて、大切にされている。あなたとは違うわ、


 あくまで静かにそう言い返す依依に、いよいよ紅桃は我慢が利かなかったらしい。


「さっさとあの女を殺しなさい!」


 彼女の号令と共に、女官たちが槍を手に走り出す。

 それを依依は、庭石に座ったまま迎えた。それを目にした紅桃がほくそ笑む。恐怖のあまり、動けないのだと思ったのだろう。


 だが、それは大いなる誤解だった。


「えっ……」


 二人の女官が目をむく。

 目の前の光景が信じられないのだろう。


 というのも、依依は突き出された二本の槍の穂――ではなく、柄を握り締めてその動きを止めていたからだ。

 焦った二人が依依の手から引き抜こうと、あるいはそのまま突こうともがくのだが、槍はもはやびくともしない。


(暗器に槍を選ぶ時点で、浅はかすぎるわよ)


 紅桃か李家の甘言につられて、悪巧みに加担しただけの素人なのだろう。

 武術の心得のない一撃はあまりに無鉄砲すぎて、避ける必要もなかった。

 たじろぐ彼女たちに目を細め、依依はまず右手で握る槍を無造作にへし折った。


 がきり、と鈍い音が響く。


「! ひっ……」


 半ばで武器を折られた女官の顔がひきつる。

 次に、左手で握っていた槍を引き寄せ、女の肩は後ろへと軽く蹴飛ばす。少々荒っぽいが、戦意を折るには手っ取り早い。


 思った通り勝手に慌てふためいた女官たちは、争うように逃げていった。

 紅桃はといえばその場に取り残され、木を支えに立ったまま呆然としている。


 彼女に近づき、その喉元に槍の穂先を突きつければ、「ひっ」と息を呑み、紅桃はその場にへたり込んだ。


「私は純花じゃないわ」


 もはや言葉を発せないだろうと思いながらも、そう伝える。

 すると紅桃は意地なのか執念なのか、目を見開いたまま小さく呟く。


「……じゃ、じゃあ、あんたは誰だっていうのよ……」


 その問いに答えるため、依依は鋭く息を吸い込んだ。


 月光を流す赤い髪の毛が、風になびく。

 舞い散る桜の花吹雪を背にして、口を開く。


「――我が名は依花イーファ! 灼依花! 私は、灼純花を守護する一本の槍だ!」

「……ッッ!」


 咆哮じみた名乗りに、空気がびりびりと震える。


 その名前を依依が使うのは、初めてのことだった。

 面影すら知らない母が名づけた名前だ。だが今は、その名前の効力が必要だと思った。


「妹に指一本触れることをお前には許さん! 二度と純花に手を出すな、愚弄するな! もしこれを破るならば、この矛先がお前の喉を貫くだろう!」

「ひ……、あぁ……っっ」


 紅桃の身体ががくがくと震える。

 当初の予定では、名乗るつもりはなかった。だが、そうせずにはいられなかったのだ。


(すっごく、すっごく、むかついたから!)


 思悦を憎み、挙げ句の果てに我が子に呪いを残して死んでいったという桃花。


 彼女に会ったことはないから、その人となりは分からない。

 思悦と比較される日々が、どれほどの苦痛であったのか。

 後宮での暮らしがどれほど彼女を傷つけ、追い詰めたのか。


 それは分からない。聞きかじった話だけで知ったかぶりするつもりもない。

 だけど、知っていることもあるのだ。


(お姉ちゃんは、妹を慈しむものでしょう!)


 長く生きられないと宣告されていた思悦は、それこそ決死の思いで依依たちを産んだはずだ。

 桃花に役目を押しつけるために、帝以外の相手を選んだわけではないだろう。そんな妹を恨むのも憎むのも筋違いだ。そんなのはあまりにも悲しすぎる。


(お母さんは、子どもを愛するものでしょう!)


 そんな母親の怨嗟に巻き込まれたのが、目の前で涙を流している紅桃だ。

 紅桃にはなんの責任も罪もなかった。それなのに桃花は幼かった紅桃に、自身が果たせなかった夢を押しつけた。


 依依にとっての母親は、育ての親である若晴ルォチンだ。

 厳しい母だったが、たくさんの愛情を注がれて依依は育ってきた。血のつながりなど関係なく、若晴は依依を大切にしてくれた。


 桃花にも、そんな道があったはずだ。選ぶことができたはずだ。

 だから依依は、彼女にむかついている。目の前に居たら、こんなに落ち着いて槍など握ってはいられなかっただろう。


「依依」


 依依ははっとした。

 呼びかけに顔を上げれば、音もなく歩み寄った宇静が紅桃を捕らえていた。

 木々の間には、縄で縛られた二人の女官が転がっている。それを目にして、依依は一息吐いた。


「ありがとうございます、将軍様」

「……お前、いつも無茶ばかりするな」

「いえ、それほどでも」


 呆れたように溜め息を吐かれて、笑いかける。

 声も上げずに泣き続ける紅桃の腕を、宇静が背中に回して縛る。それを眺めながら、依依は思う。


(思悦は自分の娘たちに、依花と純花と名づけた)


 きっと思悦は、自身の姉である桃花を思い、そう名づけたのではないか。

 それもやはり推測に過ぎなかったけれど、紅桃に――彼女の中に巣食う桃花に、届けばいい。


 これで紅桃は救われるのか。それは、依依には分からない。

 依依は正義の味方ではない。あくまで純花の味方として後宮に居るから、彼女に仇した以上は紅桃の味方になることはできない。


 それでも、少しでもその闇が晴れればいいと願わずにいられなかった。



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