第45話.果実の名前

 


 灼夏宮の夜は静かだ。


 働く女官が少なく、周囲に他の宮殿も配置されていないためだ。

 篝火も焚かれず、星明かりに荒れ果てた庭が照らし出されている。


 ひとり、庭石に腰かけて夜風を受ける少女の姿があった。


「今夜は月がきれいね」


 少女の唇から、独り言めいた呟きが漏れる。

 しかし、少女――依依はおもむろに、身体の向きを変えてみせた。


「ね、李美人」


 風に揺れるばかりの木立に向かって、そう呼びかければ。

 雲に隠れた月が露わになり始めたそのとき、現れた影が三つあった。


「……灼賢妃……」


 ぎりっと唇を噛んでいるのは、青白い月光に照らされた李美人――紅桃ホンタオ

 小柄な彼女を守るように両脇を固めているのが、二人の女官である。

 こちらの二人は以前のような女官のお仕着せではなく、胡服に似た動きやすい服を着ている。両手に握っているのは、長い柄の槍だ。


 月明かりを反射する穂を眺め、にこりと依依は微笑む。

 そんな彼女は頼りない衫を纏っているだけだ。

 だから、初めての皇帝の訪問に緊張して、庭を眺めているのだろうと判断して三人は接近していたのだ。


 だがよくよく見れば、彼女の髪の毛は頭の上で結い上げられ、馬の尾のようにその背に揺れている。

 あまりにも飾り気のない髪型だ。それは、とても皇帝を迎える妃嬪のそれではなかった。その姿を見て紅桃たちは、このまま夜闇に紛れて隠れていても致し方ないと判断したのだった。


「三人とも、元気にしていたみたいね」


 わざと煽るように依依が言えば、紅桃がまなじりを吊り上げる。


「よくお分かりになったこと。あなたは私たちのことなんか、まるで興味がないようだったのに」

「見る目だけはあるのよ、わたくし」


 といっても、依依にとってはほぼ面識のない相手である。

 見抜いたのは純花チュンファだ。純花は今も清叉寮の一室、依依の手に入れた個室ですやすやと眠りに就いているはずだ。宇静ユージンにそうして見張ってくれるよう、頼んでもいる。万が一でも、彼女に危害が及ばないためだ。


(この人たちは――、純花の専属女官たちだった)


 李紅桃。それに、彼女に付き従う二人の女官。

 彼女たちは全員が、昨年まで純花つきの女官だった。後宮を去った四人の女官の内の、三人である。


 全員、やたらと白粉をはたいていて化粧が濃いのが特徴だ。

 目鼻立ちをくっきりと強調したその顔は、依依にはどれも似たように見える。そしてそれが、彼女たちにとっての狙いでもあった。


(純花が言うには、以前はものすごく地味な装いだったそうだけど)


 そんな三人が、一年前とは真逆に派手に着飾って後宮に戻ってきた。

 堂々とした真似だが、実際に誰にも露見しなかった。


 というのも理由がある。

 三人と旧知の仲である純花や林杏リンシン明梅ミンメイたちは、ほとんど灼夏宮を出ないで生活していたからだ。


(呪われた妃の噂があったから、純花は灼夏宮の外に出かけられなかった)


 先日、来充容と話していた紅桃が、一言も発さずにその場を立ち去ったのは、依依に正体を看破される危険があったからだ。

 さすがに声色を聞かれれば、気づかれると思ったのだろう。

 だから先日、紅桃の屋敷に押し入った際、後ろでびくびくしていた二人の女官は、口を開くときは妙に甲高い声で喋っていた。小手先の真似だが、突然の事態だったためそうして誤魔化したのだろう。


 だが紅桃たちが思っていた以上に、純花の洞察力は優れていた。

 依依が仙翠シェンツイの化粧技術によって、体型まで変えて小太りの不細工な宦官に化けたときも、一目で依依だと見抜いていた。

 そんな純花の目を信じて、依依は彼女を再び後宮に連れてきたのだ。自分の女官の振りをさせて。



『ところで――居たわよ、依依』

『灼賢妃。彼女たちの中に、確かに居たのですね?』

『ええ。あの中の……後ろでずっとコソコソしてた二人、わたくしの元女官よ』



 純花の口調には確信が宿っていた。


 そのあと、一年前に後宮を去った女官の話を再び依依は聞いた。

 そして言いにくそうにしながら、その内のひとりは纏足していた娘だったと純花は教えてくれた。自分よりも三歳年下の小柄な娘だったと。


 それが今、依依を血走った目で睨みつける李紅桃だ。


「あなたの母の名前は、桃花タオファね」

「……そうよ。私の母は、あんたの母親……灼思悦スーユエの姉よ」


(腐りかけた二つの実)


 ようやく、答えに辿り着けた。

 桃花と紅桃。桂才グイツァイの言っていたのは、彼女たちのことだったのだ。


(私ひとりじゃ、分かりっこなかったけど!)


 依依が気になったのは、純花本人が今も生きて後宮――正しくは、清叉寮に逃れられていることだ。

 純花本人は命を狙われていると認識していたが、それならばこの一年間、放っておかれるわけもない。


 ならば、相手の目的はなんなのかと考えた。

 そうして浮かんだのが、母である思悦のことだ。後宮入りするはずが、旅の一座の男と結ばれて、双子の娘を産み落として亡くなった母親である。


 純花に確認してみたところ、思悦には年子の姉が居たらしいことが分かった。

 後宮入りしたという彼女については、宇静に頼んで仔細を把握している。そのおかげで名前が分かったのだ。


(純花じゃなかった。二つの実に呪われていたのは、思悦)


 恨まれ、憎まれていたのは純花ではなく、依依と純花の母である思悦だった。

 思悦が早世したために、実の子どもである純花に悪意の手が伸びたのだ。


「あなたたちの目的は、自分の母親のように、純花を……にすることだった」


(この人たちは、純花を殺すつもりじゃなかった)


 最初に立ち去った毒味役の女は、本当に何も知らされていなかったようだ。

 ただ、いつも通り毒見をして倒れた。死ななかったのは、生死に関わる毒ではなかったからだ。

 純花はお腹が空いていないと食事を断ったため、毒に当たられずに済んだだけだ。本来の予定であれば、純花自身も毒にやられるはずだったのだろう。


 部屋に毒虫を放ったのも、呪符を灼夏宮の壁に貼ったのも、全てこの三人の仕業。


 最近届くようになった呪いの文は、純花の行動に注意を促すためだろう。

 入れ替わった依依はこの一年間の純花と異なり、しょっちゅう外を出歩いていたし、目立つ真似をしていた。ただちにそれをやめさせるために、文が寄越されていたのだ。


「思悦の代わりに、純花をそうやって貶めることにしたのね」


 推論を聞いた紅桃が、訝しげに目を細めている。

 依依が、「わたくし」ではなく「純花」と言ったからだろう。だがそれ以上に、紅桃は冷静さを失っていたらしい。


「そうよ。それなのになんでよっ?」


 怒鳴りつけるように、言い放つ。


「呪われた妃なんかに、陛下は近づくわけなかったのに。それなのにどうして、今夜……陛下はあんたを……あんたなんかをっ!」


 暗い闇で澱んだ目が、じっとりと依依を睨みつける。

 しかしその目が見ているのは、依依ではない。まして純花でもなかったのだろう。


「結局、髪の毛が赤いから? 灼家の女のたったひとつの自慢、血のように赤い髪の毛……それさえあれば、呪われていても抱く気になるっていうの? は、平凡な容姿の女だったから、髪の毛もありがちな黒い色だったから、一度も陛下に訪れていただけなかったのに!」


 その不可思議な言葉に、依依は悟る。


 桃花によって呪われているのは、思悦だけではない。

 実の娘である紅桃も、既に――自分自身が誰なのか、分からなくなっているのだと。



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