第37話.皇帝との遭遇2

 


 時間が止まった。

 依依以外の全員が、そう錯覚したのだろうか。


 しばらく誰も動かなかったが、その絶句による沈黙を破ったのも依依本人だった。

 にっこりと、裏表のない笑みを浮かべて。


「私のことはいいので、樹貴妃のところに行ってあげてください」


 ささ、どうぞどうぞと両手を動かしつつ、桜の木の後ろまで下がる依依。

 他の妃嬪の元に向かう皇帝をどうでも良さそうな笑顔で送りだす妃という、なかなか見ない光景を前に、宦官たちは唖然と目線を交わす。いったい灼賢妃は何を考えているのかと。


 そして宇静ユージンはといえば、静かに眉間の皺の数を増やしていた。

 最近の彼の心労は、ほぼ依依が原因なのだが、当の本人はまったくそれに思い当たっていない。


 飛傑フェイジェはといえば、考え込むように顎に手を当て沈黙したままだ。

 そんな反応に、依依は首を傾げる。


 後宮という場所がなんのために造られたのか、依依だって一応は理解しているつもりだ。

 飛傑は若き皇帝だが、世継ぎは一刻も早く望まれる立場であろう。真っ昼間から桜霞インシァを訪ねることだって、別に依依はなんとも思っていない。


 だからこそ飛傑が気を揉まなくていいように、気遣ったつもりなのだが。


(皇帝陛下とばったり遭遇したときの対処法は、若晴ルォチン帖にも純花チュンファ帖にも載ってなかったのよねぇ……)


 何か間違っただろうか、と自分の言動を一から振り返っていると。

 灼夏宮しゃっかきゅうから、向かってくる影が二つ見えた。


林杏リンシン! 明梅ミンメイ!)


 なんと、先ほど倒れて灼夏宮に退散した二人組が戻ってきたのだ。

 依依のように塀を乗り越えるではなく、しっかりと正面の門から出てきた二人は、腰を低くして頭を下げたまま、恐る恐る依依の後ろへと収まった。


 飛傑に向かって拱手しながら。

 こしょこしょ――と林杏が耳元に囁いてくる。

 それを聞いた依依は、ぱちくりと目をしばたたかせた。


「えっ、ちょっと待って。よく分からないわ」

「!?…………!!」

「え? どういうこと? 林杏、もう少し分かりやすく言ってよ」

「……っ?!」


 何やらこそこそと話しだしてしまった妃と女官に、きょとんとする飛傑と宇静。

 しかし依依は一生懸命に林杏の言葉を聞いて、ようやく納得したところで「なるほど」と頷く。


 それから、こっほんと咳払いをして。


「ええと……陛下、申し訳ございません。先ほどは言い間違えました」


 飛傑が形の良い眉を上げる。

 女官の耳打ち――といっても、分かりやすく目の前で繰り広げられたそれを経て、依依が何を言うのか。

 楽しみにする飛傑の表情はあくまで柔らかく、その微笑は色っぽくすらある。あまりにも近くで美貌の皇帝を目にした女官二人の頬もほのかに赤くなっている。依依はといえば、普段通りだ。


「そうだろうな。それで?」


 促された依依は、はい、と微笑む。


「私の寝床を陛下に温めてほしいです。でも、春の陽気はぽかぽかしているので結構です」


 先ほどとは比べものにならないほどの衝撃が、その場に居る全員を貫いた。


「……うぐっ」


 一拍遅れ、変な声で小さく呻いたのは林杏だ。


 灼夏宮で意識を取り戻したあと、桜の木の下で向かい合っている依依と飛傑が見えた。

 しっちゃかめっちゃかなことをやらかす依依のことだ、皇帝相手にもとんでもないことを言いだしかねない、と見守る林杏は非常にはらはらした。


 思った通りというべきか、何やら様子のおかしい一団に近づいたまでは良かったのだ。

 理解力に乏しい主のため、必死に言葉を噛み砕いて「陛下にこうお伝えください」と進言した林杏だったが、まさかそれをそのまま口にされるとは思いも寄らなかった。


 これではまるで自分は、妃に無理やり下品なことを言わせた破廉恥極まりない女官ではないか――。

 青を通り越して白い顔色をした林杏は、ふらりと倒れかける。

 失神しなかったのは彼女の気丈さ故だ。どんなに恥ずかしくとも皇帝陛下の前で気を失うなどと、不届きな真似はできない林杏だった。


 そんな林杏を後ろに従えた依依は、なぜか満足げに胸を張る。


「私の女官は物知りなんです。困ったときはいつも頼りにしています」


 どうやらお付きの女官を彼女なりに自慢しているつもりらしい。

 それを聞いた林杏はいよいよ立ったまま気絶した。依依に売られたと思ったからだった。


 ――それからしばらく、沈黙が満ちる。

 風が吹くたび、桜色の花びらがはらはらとこぼれ落ちた。


「…………ふっ」

「……陛下?」


 最初に気がついたのは宇静だった。

 やがて耐えかねたように、飛傑が思いきり噴きだす。


「ふ、ふふ、っははは――灼賢妃。いや、純花。そなたはおもしろいな」

「光栄です、陛下」


 ちょっとずれた返答までおもしろく、飛傑はもうお腹が痛くなりそうだった。


「ああ、もう。……あまりにおもしろいから、呪われているなどと噂を流す輩が居るのやもしれん」

「陛下!」


 宦官たちが慌てふためく。その話は、彼らにとっては口にするのもおぞましいことだった。

 気にせず飛傑はくすくすと笑いながら、手を伸ばす。


 依依の赤い髪の毛を、撫でつけるように大きな手が触れた。


「花びらが、髪についているぞ」

「あ、ありがとうございます」


 髪についていた花びらを、取ってくれたらしい。

 素直にお礼を口にする依依に、飛傑が囁いた。


「困っていることがあるならば、余に言え。――解決しよう」


 宇静にさえ聞こえないよう、ひっそりと。

 耳元で囁かれた言葉に、依依は目を見張る。


「……いいえ、陛下。今は何も」


 だが、首を横に振った。

 理由はあるが、それを迂闊に口にしていい場面でないのは分かる。


 だから、依依は微笑むに留めた。


「ですが、本当に困ったときは、どうか陛下のお力を私に貸していただけますか」

「……いいだろう」


 小さく頷いた飛傑が、そっと依依を解放する。

 指の間に挟んだ桜の花びらを、はらりと地面に落として。



「そなたの髪の鮮やかさには、桜も霞むな」



 その言葉を唯一聞き取った宇静が、目を見開く。

 しかし依依はそんなことはお構いなしに、やはり快活にお礼を言うと。


「――では、きっと樹貴妃がお待ちかねです。さっ、私のことは気にせず!」


 どうぞどうぞ、と再び怪しく両手を動かし始めた依依に、またもや飛傑が噴きだしていた。



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