第36話.皇帝との遭遇1

 


「ほら、大丈夫。もう大丈夫だからねー」


 依依がのんびりと声をかけると。

 呼びかけに答えるように、ちゅんと小さな鳴き声がした。


 まだ産毛も生え揃っていない雀の雛が、地面に落ちているのを発見したのがつい先ほどのこと。

 鳴き声はそう弱々しくはなかったが、放っておけなかった依依はすぐに行動に移した。


 明梅ミンメイから洗ったばかりの手巾を預かって、それに雛を包んだのだ。

 なぜかというと、野生の獣に人の臭いがつくのはあまり良くないから。親が自分の子だと認識できず、子育てを放棄する場合があるのだ。


 そうして手巾にくるんだ雛を連れて、親鳥の待つ巣へとそっと送り届けたところだった。

 ――もちろん、木登りをして。


(久しぶりで楽しいわね)


 辺境に居た頃は、毎日のようによじよじと高い木に登っていたものだ。

 後宮内の木は、そこまで背が高くはないので少々物足りない気もするが。


「灼賢妃~! 妃ともあろう方が、木登りなんて~!」


 桜の木の下からは、顔を真っ青にした林杏リンシンが抑えめの音量で叫んでいる。

 また、専属女官のことを心配させてしまったようだ。

 彼女を安心させるため、依依は大声で応じた。


「大丈夫よ林杏!」

「何が、です~!?」

「ほら見てみて。私、枝の上で回転とかもできるのよ!」


 太い枝に腰かけていた依依は、見せつけるようにその場でぐるりと回ってみせた。

 妃の衣装ではなく、運動用の動きやすい格好のままなので、調子に乗って五回、六回と大回転してみせる。


「ね! 大丈夫でしょ!」


 最後は膝裏のみで全体重を支え、笑顔で両手を振る依依だが――見上げていた林杏はといえば、すっかり白目をむいて固まっていた。


「あら? 林杏、どうしたの?」

「……あぅっ……」


 ふらぁ――っと林杏の身体が傾ぐ。

 意識を失った林杏を、慌てて明梅が抱き留めている。いったいどうしたのだろう。


(ん?)


 すると、どこか別の方向を見ていた明梅が、僅かに息を呑んだようだった。

 何か物言いたげに依依を見てくるが、声を持たない女官は諦めたように首を振り、ずるずると林杏を引きずりながら灼夏宮へと戻っていく。


 誰か来たのだろうか。

 そう思った依依が耳を澄ませれば、複数人の話し声が近づいてくる。


(この声……将軍様?)


 気がついた依依は、ぴょんと枝から飛び降りていた。





「……もうすぐで陛下に当たるところでしたよ、灼賢妃」


 そして現在、飛傑フェイジェの護衛を務める宇静ユージンから思いっきり叱られている。


 宇静は、苦虫を数匹噛み潰したような顔をしていた。

 なんだろう。何か言いたげに見えるが、何が言いたいのかまでは分からないので素直に依依は「すみません」と謝った。


「でも、当たらないように将軍様が位置を調整してらっしゃったから」

「…………」


 次は分かった。これはたぶん、「そういう問題じゃない」の顔だ。


「陛下、どちらか行かれるところなんですか?」


 問いかけつつ、依依は拱手した。

 飛傑が口を開くのを待つべきだったかもしれないが、それも今さらだろうと判断してのことだ。


(わざわざお供を連れて後宮内を歩いてるんだから、何か用事があるんだろうけど)


 ちらりと目をやれば、飛傑と宇静の後ろでは、宦官たちが唖然と口を開いたまま固まっている。

 彼らは妃のひとりが桜の木の上から降ってくるという珍体験に初めて遭遇して、まだ理解が追いついていないのだった。


 そうとは知らず依依は、一生懸命に観察する。

 飛傑は手ぶらだが、宇静の手には手折った桜の枝が握られている。


(ええと、桜といえば……そうだ!)


「なるほど。樹貴妃のところに行かれるんですね」


 桜の精とあだ名されるほど、おしとやかで可憐な妃――樹桜霞。

 春彩宴でも桜を差しだしていたので、皇帝はきっと彼女のところに向かう途中だったに違いない。


 なかなかの名推理ではなかろうか。

 そう思って素直に口にした依依だったが、なぜか周囲がざわつく。


(あら? 間違ってた?)


 なぜざわつくかといえば、当然、宦官たちが修羅場の気配に身構えたためだ。

 未だ一度たりとも、皇帝に訪ねられたことのない純花が、桜霞を訪ねる皇帝を呼び止めた。


 自らの宮を横切って、寵愛する桜霞の元に意気揚々と向かう皇帝に対し、彼女の怒りと嫉妬は如何ほどのものか――恐れと好奇心とに身体を震わせる宦官たちと、沈黙する宇静。

 飛傑はといえば目を細め、じっと依依のことを推し量るように見つめていたが……。


 やがて、彼は口の端を笑みの形に歪めた。


「おや。……余を引き留めるつもりか、灼賢妃」


 試すような口ぶりだ。

 問われた依依はといえば、眉を寄せる。


「引き留める、ですか?」

「そうだ。可愛らしくも、余を誘っているのだろう? それならば、すぐそこにある宮に立ち寄らないでもないが」


 宇静が目を瞠る。


「陛下……!」


 そんな彼の反応にも、飛傑はおもしろがって笑うばかりだ。

 一見するとどこまでも甘く蕩けるような微笑みは、底に毒々しい光をたたえて依依のことを見据えている。


 見守る宦官たちが、緊張のあまり息を止めて見守る中。

 ちょっぴり考えていた依依は――赤い髪を馬の尻尾のように揺らした。


 つまり、ぶんぶんと首を横に振っていた。



「いいえ、忙しいので結構です」



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