第38話.呪いの文

 


 桜霞インシァの宮へと向かう飛傑フェイジェたちを見送ったあと。


 灼夏宮に戻った依依は、長椅子に座り込んでいた。

 動く元気を取り戻した林杏リンシンが果実水を持ってきてくれたので、それを飲んで喉を潤す。


「木登りしたから、ちょっと小腹も空いたかも」

「おやつに何か用意しますか?」

「そうね……じゃあ少なめに、饅頭マントウを十五個くらいお願いできる?」


 なぜだか怖々した顔つきで林杏が「分かりました」と頷く。


 座って待っているだけで、美味しい食べ物や飲み物が運ばれてくる後宮生活。

 辺境に暮らしていた頃の自給自足生活からするとありえないし、こんな日々が続いたら肥えた豚になりそうで心配ではあるが。


(まぁでも、明日も素振りするから平気ね!)


 そこで林杏の女官服の帯から何かが落ちた。


「林杏。何か落ちたわよ」

「えっ」


 声をかけると同時、林杏が弾かれたように振り返る。

 しかしそのときには、林杏の落とし物の白い紙は、はらりと広がっていた。


 見るとはなしに、その文面は依依の目に入る。

 そこにはおどろおどろしい血のような赤い字で、紙いっぱいにこのように描かれていた。



 ――お慕いしています。

 ――もう一度、あなたに会いたい。

 ――その顔をもっと近くで見せて。

 ――誰よりも傍で見つめていたい。



(……ん?)


 依依は何度か瞬きをする。

 その間に林杏が慌てて紙を拾い上げて、後ろ手に隠した。


 しかし、目にしたばかりの異様な文面は、依依の脳裏にすっかり焼きついていて。


「これ、何?」


 唖然として問う依依に、林杏が小さな声で答える。


「灼賢妃宛ての呪いの文です。いつも門の傍に投げ込まれていて」


(門の傍……)


 依依が気づかなかったわけだ。

 出入りの際はだいたい庭の塀を跳び越えているので、彼女が門を使うのは妃嬪としてのお役目があるときくらいなのである。


 しかも「いつも」ということは、これが初めてじゃないということだ。


「いつから?」

「……春彩宴の日の翌日からです」


 それなら十日も前からだ。

 思わず依依は身を乗りだして林杏に問いかけた。


「どうして早く教えてくれなかったの?」

「……灼賢妃が、怖がられると思って」

「林杏、私は賢妃の身代わりの楊依依よ」


 そんなことは分かっているだろうが、改めて依依は伝える。

 林杏がぐ、と唇を噛む。依依の言いたいことを理解したのだろう。


「すみませんでした」

「謝ってほしいわけじゃないわ。それで、この呪いの文は他にもあるのよね?」

「どれも似たような内容ですが、念のため保管はしています」


 頷いた林杏が、部屋を足早に出て行く。

 何度か明梅ミンメイを呼ぶ彼女の声がしたが、近くに居なかったのか、諦めたように林杏が別室に向かう背中が見えた。


 それから数分後。

 戻ってきた林杏は大変危なっかしい足取りだった。

 というのも小柄な女官は、両手に抱えた荷物に埋もれそうになっていたからだ。


「だ、大丈夫? 私も手伝うわよ!」

「だっ、大丈夫……です。しばしお待ち、を……」


 申し出を断った林杏が、ぐぎぎと唸りながらも、どうにか部屋の中央に荷物を下ろす。

 ぜえぜえ言いつつ林杏が布を解くと、そのとたんに山のような文の束が広がった。


「えっ、こんなに?」

「毎日、何回も投げ込まれるので」


 林杏はげっそりとしている。

 ここ最近、疲れた様子だったのはこれも要因のひとつだったのだろうか。


 目の前に積み上げられた文を、依依はいくつか開いてみた。

 林杏の言うとおり、やはりどれも似たような文章だ。


 全て不気味な赤字だが、赤黒く変色していないので、実際に血で書いたわけではないだろう。

 差出人の名前はなく、ただ純花への歪んだ愛情か、執着のようなものが綴られた文ばかりである。


(それにしても、すごく上質な紙……)


 表面がさらさらしていて、とても手触りが良い。これなら字も書きやすいことだろう。

 紙は高級品だが、その中でも上等な品だと思う。ということは、この文の差出人はかなり身分の高い人物じゃないだろうか。


 約一年前、灼夏宮に放たれたという毒虫やら呪符やらは全て処分されてしまっている。

 つまりこの文が、そのときの犯人と同じ人物によって投げ入れられたなら――かなり有力な手がかりになるはずだ。


(これ、将軍様に調べてもらおう)


 やっぱり、とんでもない見返りは要求されるかもしれないが……せっかくの手がかりなのだ。無駄にはしたくない。


 と、そう考えたところで依依は気がつく。

 林杏はここ数日間、文を隠していたのだ。それなのに先ほど帯から落としていた。

 つまり、それだけ別室に隠す時間がなかったのだ。


「ねぇ。林杏が持っていた文はいつ見つかったものなの?」

「つい先ほどです、けど」


 やはり思ったとおりだ。ならば、まだ犯人が近くに居るかもしれない。

 依依はすっくと立ち上がった。


「ちょっと屋根に上って――」

「それはっ! それだけはおやめください、もしも誰かに見られたらっ!」


 林杏が必死の形相で袖に縋りついてくるので、さすがに依依は諦めた。


「ねぇ。なんであなたたちは灼賢妃の元を離れないの?」


 代わりに、ずっと気になっていたことを訊いてみる。

 気の強い林杏が、困ったように視線を逸らした。


「だって恐ろしいでしょう。他の四人の女官はとっくに去ってしまったというし……林杏と明梅は、どうして逃げなかったの?」


 数秒間の沈黙が訪れる。

 依依の服の袖から手を離した林杏が、俯きがちに呟いた。


「……逃げても、他に居場所がないからです」


 それは本当に弱々しい声音だった。


「あたしには帰るべき家はありません。明梅だって。だからあたしたちは、本当に、心から灼賢妃を大切に思っているんです」


 それは、嘘のない言葉に聞こえる。

 けれど、たぶん少し違うのだと依依は気がつく。


(純花本人を大切に思っているというより……自分の今の立場を、大事にしているのね)


 おそらく林杏が手放したくないのは、上級妃つき女官という立場なのだ。

 別に悪いことではないし、そんな女官は他にも居るだろう。だが、その事実は重要な気がする。


(ただの直感だけど)


 その勘に頼って、さらに依依は踏み込んでみることにした。

 これを逃せば、訊く機会もない気がしたからだ。


「六人とも、もともと灼家に仕えていた女官なのよね? それなら、灼家に帰ればいいんじゃ……」

「――あんたにそんなこと関係ないっ!」


 しかし林杏から返ってきたのは、予想以上に強い反発だった。

 顔を怒りに染めた林杏が、真っ向から依依を睨みつけてくる。


「ただの身代わりで、部外者のくせにっ! 偶然、灼賢妃の顔にちょっと似ているだけのあんたなんかに、あたしや明梅のことを話す義理はないんだから!」


 言い放った林杏は踵を返すと、床板をどんどんと鳴らしながら部屋を出て行く。

 その直後に、「あっ、明梅!」と呼び止める林杏の声が聞こえた。


「ここ、埃が積もっていたわ。もっとちゃんと仕事をしなさいよね!」


 八つ当たり気味に怒鳴る林杏の大声を聞きつつ、依依は頬をかいた。



(……怒らせちゃった)



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