第24話.天女の舞

 


(あれなら、あの子は大丈夫そうね。良かったぁ)


 宇静ユージンに抱えられた妃の姿を目にして、依依はほっとした。

 そう。三階の高さから逆さ向きに落下しつつ、依依にはまだ思考する余裕があった。


 というのも何度も山籠りをする中、切り立った崖や根が腐っていた木から落ちるという経験は何度かあった。

 そのたびに骨折していたら堪らないので、高所からの落下の対処は身体で覚えたのである。


 豪華な衣装を風になびかせながら――くるりと、空中で器用に身体を回転させて。


(よっ、と!)


 まず彼女が木板についたのは、細い足のつま先だ。

 そのまま身体を丸めて、尻、背中、肩と、床をわざと転がるようにしてうまく落下の勢いを削いでいく。


 五点着地である。

 普段と異なり分厚い重ね着を着ているのと、地面でなく床板が相手だったので、多少苦労したが問題はない。


 特に怪我なく着地を果たした依依は、肺に溜まっていた空気をふぅと吐いて素早く立ち上がった。


 円形会場は静まりかえっていた。

 もはや、宴は終わったのかと誤解してしまいそうなほどの沈黙が満ちている。

 だが見上げれば、飛傑フェイジェも、宇静も、四夫人も、妃嬪や女官や宮廷音楽家や皇帝の近侍たちも――女官には気絶している人も居たが――彼らは呆然と、依依のことを見下ろしていて。


 そんな彼らと目が合って。

 にっこり、と依依は微笑んだ。



「――いかがでしたでしょうか、わたくしの舞は」



 その声音はよく通り、会場中に響き渡るかのようだった。

 それから依依は妃らしい気品ある微笑を維持したまま、見よう見まねの礼をする。


「わたくしの芸で陛下や皆々様の目を楽しませることができていましたら、幸いでございます。……これにてご免!」


 言い捨てて、依依は駆け出した。


 といってももちろん、今の依依は賢妃・純花の身代わり。

 全力で走るわけにはいかないが、下品と言われない程度の速さでそそくさと扉から出て行く。


 背後から、どよめく声がした。

 出入り口を見張る衛兵たちは、未だ会場内で何が起こったか知らないのだろう。

「なぜ妃がひとりで」と呆気に取られている様子の彼らに頭を下げ、そのまま依依は素早く逃げる。


(やっぱり、まずかった……?)


 あの一瞬。

 いろいろ誤魔化すため、依依なりに必死に考えたのだ。

 春彩宴は天女の祭り。ならばこの事故も出し物の一部かのように振る舞えば、丸く収まると思ったのだが――あのぽかんとした反応を見る限り、失敗だったのかもしれない。


(まぁ、やっちゃったもんはしょうがない!)


 しかしどこまでも前向きな依依は、細かいことはあまり気にしない。

 今日のところは灼夏宮しゃっかきゅうに帰ればいいや、と思った直後である。


「!」


 背後から腕を取られた。

 恐ろしいことに、気配はほとんど感じ取れなかった。


 この姿勢からでも逃げることはできたが、寸前で依依は動きを止める。

 依依を捕らえたのは、麗しき将軍――宇静だったのだ。


(息が切れてる……)


 ここまで走って追いかけてきたのだろう。

 警戒を滲ませて目を細める依依を、人目につかないようにか、宇静が手近な建物の裏へと引き込む。


 そこで喰らったのは、地を這うように低い声音だった。


「お前、楊依依だな」


(う!)


 開口一番、ばれている。

 頬を冷や汗が伝うが、依依は動揺を押し殺して返事をした。


「な、なんのことやら」

「灼賢妃は運動が苦手でもっと鈍くさい」

「え! そうなんですか!?」


(そういうことは早めに言っておいてほしいんだけど!)


 ここには居ない女官の林杏と明梅に、心の中で叫ぶ。

 すると宇静が苦い顔をした。そこで「あっ」と依依も気がついた。


「やはり依依か」

「………………」


 墓穴である。


「これはいったいどういうことだ。なぜ武官が妃の振りをしている。いやそもそも……お前は女なのか? それと、怪我は」


 彼も焦っているのか、矢継ぎ早に訊かれる。

 しかし依依は諦めなかった。もう完全に詰んでいる状況だったが、それでも足掻く。


「……ええっと、なんのことかしらぁ?」

「……何?」

「依依って誰? わたくし何も知らないわ。あ、怪我は、してないのだけどね」


 純花っぽい声を作りつつ、明後日の方向を見る依依を、きつく眉根を寄せた宇静が見下ろす。

 握られたままの腕に、ますます力が込められた。


「一応言っておく。後宮に皇帝以外の男が立ち入ることは許されない」

「…………それが?」


 風向きが怪しくなってきたのを察しつつ、続きを促してみると。


「つまり俺はお前が男である場合、お前を逮捕しなければなら」

「私、女です!!」


 依依は早々に諦めた。さすがに捕まってさらし首とかは勘弁だ。

 しかも罪状は女だらけの園への不法侵入罪。いろいろ不名誉すぎる。


 あっさりと白旗を挙げた依依を呆れた目で見やってから、ぼそりと宇静が呟いた。


「やはり、あちらが灼賢妃なのか?」

「……え? どういうことです?」


 意味が分からず依依は聞き返した。

 宇静は少し悩んだようだが、教えてくれた。


「今、お前の代わりに楊依依の振りをしているやつが居る。お前そっくりの顔の持ち主だ」


(え? それってつまり純花が……私と入れ替わってるってこと!?)


 寝耳に水だった。


 確かに、純花は依依の武官服を持って逃げ出したようだった。

 変装にでも使うのかと思っていたが、まさか清叉寮に行って武官に成りきっていたとは。


「その顔を見るに、どうやら灼賢妃の動きは把握していないようだな。……謀られたか?」


 そう思うと、堪らなく心配になってくる。


 武官の訓練に、運動が苦手だという純花がついていけるとは思えない。

 それに依依と違って、灼家の姫君として生きてきた純花はどこからどう見ても可憐極まりない女の子だ。男たちの巣窟でやっていけるはずがなかった。


「将軍様。純花は……灼賢妃は無事なんですか!?」


 血相を変えて依依が迫ると、宇静は少々面食らった様子だった。


「無事、といえば無事だな。元気にやっている……というか、なんというか」

「本当!? それなら良かった……!」


 何やら宇静は言い淀んでいたが、「無事で元気」と聞ければ依依としては安心だ。

 良かった良かった、と喜んでいたら、なぜか急に宇静が距離を詰めてきた。


 結われた頭を、建物の壁に押し当てられる。

 簪が変な角度で頭皮に刺さった気がする。痛いと文句を言おうとしたが、動かそうとした口のすぐ傍に宇静の薄い唇があった。


「…………っ!」


 息が止まる。

 彼の睫毛が自分のそれより長いことに、気がついてしまった。



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