第23話.落つる花

 


(な、なんでこの人がここに!)


 依依はすっかり慌てた。

 だが、皇帝直属の清叉軍将軍である宇静ユージンが、護衛としてそこに居るのはごく自然なことである。


 思わず食い入るように見てしまったが、気配に気がついたのか宇静が依依のほうを向く。


(まずい!)


 ぎこちなく依依は皇帝へと目を向ける。

 まだ宇静の視線を感じるが、気がつかない振りを決め込む。ここで身代わりが知られては全てが水泡に帰すのだ。


 表情に動揺を出さないよう努めつつ、依依は控えめに見上げる。


 陸飛傑リクフェイジェ――香国の今上帝は、用意された豪奢な椅子についていた。


 面立ちは精悍というより、やや女性的で美麗な印象だ。

 二十二歳という若い年齢だが、そう感じさせないのは、彼の瞳と表情に余裕と威厳があるからだろう。


(ちょっとだけ、将軍様に似てる)


 宇静は飛傑の弟だというから、宇静が飛傑に似ていると言うべきだろうか。


 そんな皇帝の衣装は冬の色だが、衣自体は春に合わせたもので布は薄い。

 髪も結っていないのは儀式の内容を考慮してだろう。しかし飢えた行き倒れの村人を演ずるには、あまりに神々しい美貌の持ち主である。


 整った容姿の彼を前にして、後ろの妃嬪たちは揃って頬を上気させている。

 四夫人はといえば、さすがに落ち着いたものだ。むしろ宇静が居たことで焦った依依を見抜いたのか、深玉シェンユに睨まれてしまった。


(わっ、ごめんなさい)


 心の中で謝っておく。


 すると――ぴいい、と甲高く笛の音が鳴った。

 儀式の合図だ。貴妃・桜霞インシァが、すっと音もなく立ち上がった。


(おお)


 ほぼ同時に立ち上がったのが、依依の左隣の淑妃・深玉。

 その次に、依依と共に右隣の徳妃・桂才グイツァイが立った。


 鼓が打ち鳴らされる。

 桜霞と桂才は右の階段を、深玉と依依は左の階段を上っていく。

 それにぞろぞろと妃嬪たちが続く。木の板を鳴らす音がほとんどしないのは、見事な桜色に染め上げられた絨毯が敷かれているからだ。


 長い階段を上る最中、次第に足音の数は少なくなっていった。

 階級に合わせ、四夫人以下の妃嬪たちが上る途中で立ち止まり、跪拝の礼をとっているためだ。


 まるで何度も練習したように、一糸乱れぬ足並みで進んでいく妃たち。

 そんな彼女たちに感化されてか、依依も長い裾を一度も踏むことなく、最上階へと辿り着いた。


 皇帝の目の前で、四夫人が横に並ぶ。

 依依としては後ろの宇静の刺すような目つきのほうが気になったが。


 初めに飛傑の下に進み出るのは桜霞だ。

 天女そのもののような優雅な所作で、桜霞は既に桜の枝を取り出している。

 飛傑の前に置かれた台。透かし彫りのされた四つの花器のひとつに、桜霞が恭しく枝を挿す。

 妃嬪たちを代表し、四夫人のみが皇帝に花を贈ることが許されているのだ。


 桜色の満開の花を、数え切れないほどに身につけた枝を目にして、飛傑の口元が綻ぶ。


「陛下の治世の安寧と、香国のさらなる繁栄を願って」


 桜霞が唱え、しずしずと後ろに下がる。

 そのあとは深玉が白い梅の花、桂才が棘を抜いた黒赤色の薔薇の枝を捧げていく。

 それで分かったのは、桜霞の持っていた枝の立派さだ。あれほど花が多く華やかな桜の枝は、都中を探してもそう簡単には見つからないだろう。


(もしかすると本当に、天女様が咲かせた桜なのかも?)


 そして出番の来た依依も、袖から取り出した枝を花器へとそっと挿した。


 桜霞のものよりちょっぴり見劣りはするかもしれないけれど。

 気に入ってもらえたらいいなーと思いつつ、お決まりの口上を唱えようとすると。


花海棠はなかいどうか」


 しばらく黙っていた飛傑が、枝を見て口を開いていた。


(あら?)


 依依はぱちくりと瞬きする。

 純花チュンファは今まで一言も、皇帝とまともに話したことがないという。

 つまりこれ、けっこうな快挙ではなかろうか。


明梅ミンメイ、偉い!)


 枝を用意した女官の名前を心の中で呼び、依依は褒め称える。


 純花の寝室でも、水盤に浮かんでいた花だ。

 桜にも薔薇にも似ている花海棠は、目に鮮やかで愛らしい。


 今までは花を愛でるというより、薬の材料にするため植物の根や茎を掘るのに夢中だった依依だったが、都に来てからは花を見る機会が多かった。

 髪飾りや、衣装の模様などにも多種多様な花が使われていて、見ていると飽きないのだ。


 ……そして、花の名前をした美しい料理も都に来て数多く見てきた。


(特に――昨日の夕餉に登場した、芙蓉蟹肉フーロンシェロウ!)


 すなわち、かに玉である。

 卵白のふんわりとした舌触りと、たっぷりと餡がかけられた蟹の風味を思い出しながら、うきうきと返事をする。


「はい、陛下。わたくしの女官が早咲きのものを見つけまして、春彩宴の儀に相応しいかと持ってまいりました。まだ咲いていないものもありますが、赤い蕾も可愛らしいなと思いまして」


 明るく依依が答えれば、飛傑が目を瞠る。

 背後のざわつきも一気に大きくなった。


(え?……私、なんか変なこと言った?)


 依依は首を傾げた。

 周囲に広がる動揺が、俯きがちの妃が背筋を伸ばして皇帝相手に返答したからだと、依依には気づくべくもない。


「……ずいぶんと楽しそうに花を愛でるのだな、灼純花」


 飛傑が思わずといった様子で、微笑みをこぼした。

 途中から食べ物のことを考えていたとは言えない。笑顔で誤魔化した依依は、そそくさと後ろに下がった。


 一際高く、笛の音が鳴らされる。

 儀式の終わりを告げる音だ。妃嬪たちに労いの言葉をかけた飛傑が立ち上がり、望楼を下りようとする。


 階段ではそんな飛傑の姿を少しでも目に焼きつけようとしてか、妃たちが争うようにして身を乗り出していた。


(危ないわね、あの子たち)


 彼女たちは皇帝にばかり気を取られているが、この円形の会場は三階建ての建造物なのだ。

 階段の幅は二人もすれ違えないほどに狭い。あんな風に押し合っていては落下の危険がある。


 そう思った直後だった。


(あ……)


 どん、と。

 押し合う誰かの肘に突き飛ばされた小柄な妃の身体が、宙へと投げ出された。


 自分の身に何が起きているのか、理解できていないのだろう。

 目を見開いた彼女はゆっくりと、地面に向かって落下していく。


 ――その光景を見た瞬間。


 依依は舞台を駆け下り、無我夢中で飛び出していた。


 落下する少女の腕を取り、思いっきり上空に投げる。

 受け止めたのは、素早く駆け寄ってきていた宇静だった。目を見開いて依依のことを見ている。


 彼は依依に向かって、片手を伸ばした。


 だが、その手は、既に落ちかけている依依には届かない。

 幾重もの優雅なひれが、花開くように宙を舞う。



「きゃああああっ」



 女たちのつんざくような悲鳴が、会場中に木霊した。



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