第25話.けだもの将軍

 


「ちょ、ちょっとっ?」


 依依はなんとか身体をやや後ろに逸らしたが、宇静ユージンは答えない。

 握られたままの腕も、頭上で縫い止められて解放されないままだ。


 まるで、無理やり抱擁されているかのような。

 密着した状態で依依の頭にあったのは何かといえば――命の危機である。


(このままじゃ殺される!)


 空いているほうの手で拳を作り、依依は反射的に振り上げた。

 しかし宇静に当てる寸前で止める。理性が働いたのだ。


(ここでこの人を殴ったりしたら、純花チュンファの立場がまずいかも)


 しかも、やろうと思えば宇静は今この場で依依を逮捕できる。

 それが純花の名でか、依依の名でかは分からないけれど、どちらにせよ純花に迷惑はかけたくない。


 となれば、いつものように暴力に訴えるわけにはいかないのだ。

 ならばと、依依は言葉で説得を試みることにした。


「私、あの、今は一応っ、皇帝の奥さんなんですけどっ?」


(正しく言うと、身代わりだけど!)


 後宮内で殺人罪を犯せば、さすがの宇静だって大変なことになるはず。

 そう思って注意したつもりが、彼は物珍しそうな顔をするだけだった。


「知らないのか」


 青みがかった瞳が、覗き込むように依依を間近から見つめる。

 珍しく焦る依依を彼が面白がっていることに、彼女はまったく思い当たっていなかったが。


 それから宇静は、無造作に依依の首を掴んだ。


「ぐえっ」


 潰れかけの蛙のような悲鳴を上げる依依。

 大した力は込められていなかったが、骨張った指が肌に食い込む感触に喉がぶるりと震える。

 普段はこんな真似をされる前に相手を叩きのめす依依なので、落ち着かなくて仕方ない。


「皇帝の許可が下りれば、俺はお前をどうにでもできるぞ」


(ど――、?!)


 依依は素で驚いてしまった。

 しかし言われてみれば、宇静は皇帝である飛傑フェイジェの弟。


(弟であれば、奥さんを殺す許可も出しちゃうの!? 皇帝、怖すぎるんだけど……!)


 ここには居ない皇帝への好感度が、依依の中で一気に冷えていく。


 ぶるりと震えた依依が抵抗をやめたからだろうか。

 そのあともじろじろと、依依の全身を宇静の視線が無遠慮に眺め回す。

 だが粗暴者のするような、下品な目ではない。どちらかといえば届けられた商品を点検するそれに近い。


「……確かに、怪我はないようだな」


 彼が口内で呟いた、そのときだった。


 遠くから純花を捜す声が聞こえてきた。

 林杏の声だ。会場から逃げ出した依依を捜しているのだろう。


 しばらく黙っていた宇静が、ようやく依依の首を離す。


「……また来る。そのとき詳しく事情を聞かせてもらう」


 どうやらこの場は見逃してくれるということらしい。

 ほっとした依依だったが、彼女の場合、ここで黙って頷くような可愛らしさは持ち合わせていない。

 皇帝は恐ろしいが、それならばなおさらのこと。後宮から逃げ出した妹のことを放っておけないのだ。


「それなら次のときは、私を清叉寮に連れて行ってもらえますか?」

「………………は?」


 一瞬、眉間の分厚い皺も剥がれるほどにぽかんとする宇静。

 立て続けに依依は言い放つ。


「灼賢妃の様子を見に行きたいんです。大丈夫、遠目に確認したいだけなので! 将軍様と一緒なら、きっと可能ですよね?」


 飛傑の許しがあれば、妃嬪の振りをする依依のことさえどうにでもできると宇静は言った。

 つまり彼ならば、依依を連れて後宮を出て、清叉寮に連れて行くのだって可能なはずだ。


「お願いを聞いてくださるのであれば、事情は話します!……あっ、話せる限りは!」

「お前……、」


 宇静は呆れかえった様子だった。

 依依の立場から取引を持ちかけること自体が、論外だと思っているのだろう。


(それは承知してるけど)


 しかし宇静は、わりと話の分かる人だと依依は思う。

 依依がふざけたり、皇帝に害を与えるために妃の振りをしているわけでないのは、とっくに察しているだろう。


 二日前に依依の心意気を買って、武官として部屋を与えてくれたように。

 本来、取引にもならないこのお願い事だって、宇静ならば聞いてくれると――自分でも不思議なのだが、そう思っている。


 宇静は、それはそれは大きな溜め息を吐いた。

 表情には迷いがある。だが否とは言わない。それが答えだった。


 依依が明るく笑いかければ、宇静は忌々しそうに舌を打って。

 彼の長い腕が動いたかと思えば、また壁に頭を押しつけられた。


 整った顔が、間近に迫る。

 青い瞳に囚われたかのように、依依は身動きができなかった。



「――小猿。くれぐれも、目立つ真似はするなよ」



 耳に触れるほど近くで、ひっそりと囁いてから。

 宇静は身体を離した。踵を返し、音もなく走り去っていく。


 その後ろ姿を見送った依依はといえば、わなわなと震えていた。

 彼に触れられた首が、ついでに耳元までも熱くて仕方がない。


 というのも、


(あの人……今、首の太い脈を噛もうとした!!)


 信じられない。まるで獣である。

 しかし確実に相手の息の根を止めるには、確かに有効な手段だ。

 今の依依は衣を幾重にもまとっているから、防御の薄い部位を狙ったということか。


(やっぱり、本気で私を殺す気だったんじゃ……)


 取引なんて持ちかけたから、むかついたのかもしれない。


(冷静沈着に見せかけた、けだもの将軍だわ)


 将軍相手に不名誉極まりないあだ名をつけて、ぶるりと背筋を震わせる依依。


 命の危機に瀕して騒いでいた心臓を落ち着かせていると、見つけた女官たちが駆け寄ってきた。

 依依は二人を笑顔で出迎える。


「林杏、明梅。来てくれてありがとう、助かったわ……!」


 なぜか感謝の言葉で迎えられた林杏は、ぜえぜえ言いつつ「はぁ!?」と声を裏返らせていた。



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