第10話.不穏な台所

 


 その日、洗濯係を任された依依は、洗濯場にて熱心に仕事をしていた。


 腕まくりをし、着物の裾をたくし上げて、せっせと足踏み洗いをしている。

 大きな槽に井戸から汲んだ水を張り、その中に衣服を入れているのだ。

 ばしゃばしゃ、と水音を立てて踏むたびに、土色の汚れが浮かび上がってくる。

 水はすぐに汚れてしまうので、捨ててきては新しい水と入れ替えなければならない。かなりの重労働だ。


(辺境の洗濯は、本当にきつかったなぁ……)


 若晴ルォチンと暮らした家には井戸なんてなかったから、いつも近くの川に洗濯籠を持っていき足踏み洗いをしていた。

 特に冬場の洗濯は寒くて堪らず、凍傷寸前まで追い詰められながら必死でやっていた。


 だが、季節は陽気な春。

 北に比べて都の春は空気がほんわりとしていて温かいし、しかも井戸のある洗濯場が設けられているので、洗濯もあまり苦ではない。


 近くには同じような格好をした見習いたちが、疲れた顔つきで作業に取り組んでいるのだが、依依は元気に衣服の束を踏み踏みしているのだった。


 ――見習い武官である依依たちの役割は、主に炊事洗濯掃除の三つ。


 これらは主に見習い武官が交代制で行う決まりとなっているが、炊事……つまり調理の仕事に関しては、新入りのうちでも割り振られているのは依依のみだ。


 というのも、料理の心得のある男というのは少ない。

 まともな食事を出せないと話にならないので、仕事始めの初日に全員が台所に立たされ、料理の腕前を試された。


 その結果、先輩台所番たちから立ち入りの許可が出たのは依依ひとりだけだったのである。

 八十人近い武官たちの中で、調理の心得があるのは今までたったの五人だったそうで。依依はかなり歓迎されることとなった。

 そのため仕事は料理番を多めに割り振られ、たまに洗濯か掃除が回ってくるという調子だ。


 しかし腕前は今のところ最下位である。

 とりあえず手当たり次第にぶっ込んで炒めるか、煮込むかという選択しかない依依にとって、学ぶべきことは多かった。


(それにしても、炊事洗濯掃除って)


 やっていることは下働きも同然だ。

 というのも女官たちの手は、ここまでは届かないらしい。


 理由としては武官寮なんて飢えた狼の巣のようなものだということで、手伝いを嫌がる女が続出したからだそうだ。

 そのため宇静ユージンの指示により一年前から、雑事は基本的に見習い武官でこなし、先日の試験のように手の足りないときは手伝いを求めるようになったそうな。


 彼の采配に感謝した女官もさぞ多かったことだろう。


(私もここに来て、何度か襲われかけたものね……)


 とかのんびり考えている依依が、年若い娘の常識から外れているのはまず間違いない。


 宇静やそのお付きの者のように、高い官位を持たない下っ端武官たちは全員が大部屋での雑魚寝なのだ。

 寝ぼけた男、あるいはそう装った不埒者が襲いかかってきたことは何回かあった。

 長い髪は隠しているし、寝る以外の時間は胸にさらしを巻いている依依だが、目鼻立ちは誤魔化しようがない。


「女みたいな顔だ」と興奮する輩は居るようで――いや、そもそも依依は女だから間違ってはいないが――下品な企みを持つ手が伸びてくるたび、依依はそれらを片っ端からはたき落とした。

 同期のリャンも親身になってくれた。今は大部屋の片隅に依依、その横に涼という並びで寝ている。そのおかげで、下卑たちょっかいは少しだけ減った。


 ……ちなみに、登用試験のときはさらしを巻いていなかったのだが、なぜか誰にも女だと悟られなかった。とっても不思議である。


 裾をたくし上げたまま、溜め息を吐いて額の汗を拭う。

 すると、その弾みにごくり、と生唾を呑み込む音が聞こえた。


 ……これもいったい何回目だろうか。


 胡乱げに依依が振り返ると、大慌てでそっぽを向く同期の青年たち。

 この容姿や、細く白い手足はどうにも彼らの目を引いてしまうらしい。


 だが、もともと生まれ育った村では小猿小猿とからかわれていた依依である。

 しかも今は男の振りまでしているのだから、彼らの反応は奇妙なものだ。


(女っ気がない生活を送ってるから、その反動でごく僅かな女の気配を嗅ぎ取っている、とか……?)


 真剣に、ものすごく失礼なことを考える依依。

 というのも先輩方だけでなく、武官登用試験を共に受けたはずの彼らさえこの反応。

 あのときもっとぶっ叩いておけば良かったか、などと物騒なことを考えてしまうのだった。




 ◇◇◇




 翌日の仕事は台所番だった。

 いつも以上に早起きした依依は、厨房服に着替えると台所へと足早に向かった。


「来たな、依依」

「おはようございます。よろしくお願いします!」

「おう。今日もよろしくな」


 台所番を務める先輩たちは、温厚そうな人が多い。

 今日は四人の先輩たち、それに依依の全員で食事当番だ。

 手際が良くない依依は、彼らの補佐として厨房に入るのだ。


 卵の入ったざるをせっせと台の上に並べていると、食堂の入り口のほうから笑い声が聞こえてきた。

 見れば、田舎のごろつきといった風情の男たちが三人、乗り込んできたところだった。


(出たな、牛鳥豚!)


 名前が覚えきれないので、依依は特徴的な外見からそう呼んでいた。

 太っちょが牛、鶏冠とさかを生やした痩せっぱちが鳥、鼻が潰れたのが豚。実に分かりやすい。

 一応、まだ心の中だけに留めているあだ名である。


 親玉の鳥を、両脇から牛と豚が囲むようにしてこちらに向かって歩いてくる。


「おーおー。今日の台所番は楊依依ヤンイーイーか」

「女男揃いの、立派な厨房だなぁ!」


 食材の載る台を力任せに叩いて、囃し立てるように牛鳥豚が騒ぐ。


 無作法な言動に、台所番の先輩たちが眉を寄せた。

 他の武官と異なり、基本的に先輩たちは厨房の仕事のみを担当していて訓練や演習には参加しないという。そうしなければ、とてもじゃないが三食の食事作りがままならないからだ。


 ――彼らにとってここは、神聖な仕事場。

 数日を過ごした依依にさえ分かることが、この獣たちには理解できないのだろうか。


「はい、精いっぱい頑張りますね」


 向けられている悪意の目に、依依は気づかない振りをして愛想の良い笑顔を返した。

 すると三人が、舌打ちしながら引き下がる。乱暴に椅子を引いて座ったあたり、どうやらそこから野次を飛ばすつもりなのか。


 彼らは武官登用試験での依依の暴れっぷりを見ていない。

 だが、散々尾ひれのついたそれを風の噂で聞いたらしく、気に食わないようで何かと絡んでくるのだ。


(せっかく干し終えた洗濯物を、わざと泥の中に落とされたり……掃除を終えた床を汚されたり……)


 下っ端武官としてうだつが上がらない日々を送る彼らにとっては、新入りの活躍は面白くはないのだろう。

 つまらない嫌がらせをするなら、正々堂々と殴りかかってくればいいのにと思う依依である。


(そうすればこっちも正面から殴り返すのに……)



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