第11話.嗚呼、偉大なる母牛
「依依、知ってるか? 乳を作るのに、母牛はとんでもない量の血液を使っててな……」
「えっ? そうなんですか?」
ぴりぴりしている雰囲気を和ませるため――というより目をぎらつかせる依依の気を逸らすためか、先輩が雑談を振ってくれた。
そうして最初はわいのわいのと会話しながらの作業だったが、気がつけば全員が無言になっている。
というのも、およそ八十名分の食事を一度に作らなければならないのだ。
しかも、一部の昼餉の準備も同時に進めていくので、だんだんと喋っている余裕もなくなっていく。
「依依、この鍋見といてくれるか!」
「はい!」
「こっちは湯から引き上げてくれ!」
「はいッ!」
汗を流しながら食事を作り続ける依依たちには、牛鳥豚の低俗な笑い声や悪口などほとんど耳に入ってこない。
土鍋の中身がぐつぐつと煮える音。じゅーじゅーと香ばしい音を立てる鉄鍋を振るのに必死である。
そして彼らの姿形すら、鍋や竈から出る大量の湯気や煙の中にぼぅっと消えていったので、依依はすっかり牛鳥豚のことは忘れていた。
やがて、香りに誘われるように食堂には人が増えてくる。
その中に
(な、なんとか間に合った――!)
台の上に料理の入った大皿を置き、取り皿や箸を用意すれば準備万端だ。
待ってましたと言わんばかりに、腹を空かせた男たちがわらわらと台の前に群がってくる。
毎朝通りのその光景を前に、ようやく依依は満足げな息を吐いた。
(洗濯掃除の当番より、料理当番がいちばんきついかも……)
やりがいはあるが、この緊張感は尋常ではない。
これを毎日当然のようにこなしている先輩たちのことを、つくづく尊敬してしまう。
そして鼻や耳や目が刺激されすぎて、お腹が鳴っている。
依依はひもじい思いでお腹を擦った。既にきゅるる、とそこから哀愁漂う音が聞こえてきている。
「先に食べてろよ、依依」
「え? いいんですか!?」
「あとはやっとくから平気平気」
すると先輩たちがそんな声をかけてくれる。
本日の献立は
花捲は饅頭と似ている。どちらも小麦粉を使っているが、こちらはほんのりと甘くて歯ごたえが柔らかい。
見た目も可愛らしく、渦を巻くように生地を捻って蒸しているので、花に似ていると子どもや女人が喜ぶ点心だ。
醤蛋は中身が半分蕩けた卵だ。
働き出した一日目の昼も、献立はこの組み合わせだった。花捲と醤蛋は一緒に口に運ぶと、それは堪らない幸福の味になるのだと既に学んでいる依依である。
牛の乳も、言わずもがなの高級品。香りは特徴的で人の好みは分かれるが、これを飲むと気力が漲るようですっかり大好物だ。
それではお言葉に甘えて、と頭を下げつつ、依依が厨房を出ようとしたときだった。
――ばしゃんっ! と大きな水音が鳴った。
何事かとそちらを見遣った武官たちが、唖然として固まる。
頭から、顎から、ぽたぽたと水滴を落として。
びしょ濡れになった依依が、そこに突っ立っていたからだ。
「…………」
水ではない。白く濁ったそれは、牛の乳だった。
空の杯を、ぶらぶらと片手で振った鳥頭の武官がげらげらと笑う。
どうやら彼がわざと、手にしていた杯の中身を依依に引っかけたようだった。
「うお、くっせぇ!」
「おい見習い! お前、臭うぞ! おれたちの鼻が曲がりそうだ!」
三人の男たちが腹を抱えんばかりに笑っている。
依依が顔を上げると、顔を青くした
依依が避けなかったのは、彼女が避けていた場合、後ろの料理に牛の乳が降りかかっていたためである。
そんなことにも気がつかないやつらに、説教してやらねば気が済まない。
「――あのね、牛鳥豚」
純粋な怒りに燃える、赤銅色の瞳。
依依の感情に呼応するかのように、彼女の双眸は炎そのもののように鋭く光っている。
見据えられた牛鳥豚は、ぎょっとしたように肩を引いた。
しかし彼らは、何やら変な名前で呼ばれたことに遅れて思い至った。
「……あ? 牛鳥豚?」
「あんたたちのことよ。牛で、鳥で、豚」
ひとりずつ、しっかりと指で指しながら呼んでやる。
怒りのあまり女言葉に戻ってしまっている依依だが、今はそれに気がつく余裕もない。
「それじゃ、代表して牛。あんたの
「……え……。し、知らねえけど……」
迫力に呑まれてか、牛は存外素直に答える。
依依はひとつ頷いた。
「そう、なら教えてあげる。牛の乳の源は大量の血なの。つまりさっきあんたの主人がぶちまけた一杯はね、仔牛のために母牛が必死に蓄えていた血液も同然なのよ」
完全に先輩の受け売りだ。だが、その話に感銘を受けた依依の怒りは凄まじかった。
「分かるでしょう? あんたも赤ん坊の頃はお母様の
牛鳥豚が、震えながら後ろに下がる。
しかし依依は容赦なく距離を詰める。床板が、彼女の足の下でめきめきと唸る。
濡れた手を伸ばして。
怯える鳥の額を掴むと、彼が「ひぎっ」と潰れた蛙のような悲鳴を上げた。
周囲のざわつきが大きくなるが、知ったことではない。
「ねぇ言ってみてよ鳥頭。あんたがすくすくと大きくなれたのはどうして?」
「そ……それは」
「どうして? はっきり言ってくれなきゃ分からないわ」
「……
「ええ。何?」
手を離してやると、顔を真っ赤にした鳥がその場に座り込み、涙声でぼそぼそと呟く。
「妈妈のおっぱい……しゃぶ……しゃぶってたから……」
牛豚が信じられないものを見る目で頭領の鳥を見ているが、鳥は幼児に戻ったように啜り泣きするばかりである。
分かってきたじゃないの、と依依は厳かに頷く。
「では今からお詫びの時間よ。全員、そこに直りなさい」
大人しく床に正座する三人組。
彼らを見下ろし、かっ! と依依は目を見開いた。
「――さあ、母牛に謝れっ!」
「すみませんでした! お母さんっ!」
「仔牛にも謝れっ!」
「すみませんでした! お子さんっ!」
「牛たちを育てた牧場の皆さんに謝れっ!」
「すみませんでした! 牧場の皆さんっ!」
「朝早くから支度をしてくれた台所番の先輩たちに謝れぇっ!」
「すみませんでしたぁ! 先輩たちぃっ!」
反省心か、それとも羞恥心が高まってきたのか。
公衆の面前であるにもかかわらず、三人は繰り返し詫びの気持ちを示している。
大の男たちが、涙と鼻水をぐずぐずと垂らしながらも叩頭する姿はとんでもなく情けない。
しかし彼らが心から反省しているのは伝わってくる。今後は食べ物を粗末にしようなどとは思わないでほしいところだ。
なんて呑気に考えていたら、周囲の武官たちが揃って頭を下げている。
何事かと思えば、彼らの間をすり抜けてこちらに向かってきているのは
はて、いつから見られていたのだろう。
宇静はいつも通り眉間にぐっと皺を寄せていて、厳しい顔つきで依依の前に立った。
恐ろしいまでに空気が冷えていく。
見守る涼なんかは今にも倒れそうな、真っ青な顔色だ。
そんな周りの顔つきを見ていて、あ、と依依も気がついた。
(……あれ? 私、もしかして職を追われる?)
申し開きたい事情はあるが、先輩三人相手に無茶をやらかしたのは事実である。
どんな処分だろうと甘んじて受けよう、と観念したときだった。
「……く……」
依依を見下ろしていた宇静が、ふと首の角度をずらした。
口元を手で覆ったかと思えば、小さく震えている。
お付きの童顔青年はといえば、困ったような顔で肩を竦めていた。
(この人……笑ってるの?)
物珍しさに、思わず覗き込もうとしたときだった。
宇静に腕を掴まれた。
そのまま強く引っ張られて、依依は目をぱちくりとする。
「来い」
「え?」
意味が分からず聞き返すと、鼻に皺を寄せて短く返された。
「お前、臭い」
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