第9話.見習い武官の朝
――ぱちり、と依依は目を開けた。
鶏が起き出すより早朝、いつも通りのすっきりとした目覚めである。
身体を起こし、ひとつ大きく伸びをすると、粗末な
阿鼻叫喚、といって差し支えないほどのいびきの大合唱が鳴り響く中。
(まずは井戸で水を汲んで、顔を洗って……)
布団から飛び出た腕や足を踏まないように足元に気をつけつつ、依依は寝起きとは思えない軽快な足取りで進んでいく。
『お前を清叉軍武官に任ずる、楊依依』
女官になるつもりが、なぜか武官となり。
しかも武官になれるのは男のみだと、後に知ったが――しかし依依は、そんな些細なことで落ち込む性分ではない。
少し予定は変わったが、こうして無事宮城に入ることはできたのだし。
(首尾は上々。あとは
楽観的すぎて、
手洗い場で桶を使い、清潔な水で顔を洗う。
このあと先輩武官たちものそのそと起きて水を使うと分かっているので、床に置いた瓶には大量の水を汲んであった。
「ふぅ……」
頭をしゃっきりとさせた依依の、瑞々しく張った頬からはいくつもの水滴が流れ落ちていく。
長い髪の毛は頭の上で結い直して、黒い頭巾ですっぽりと覆う。切ってしまえば早いが、若晴の言いつけでずっと伸ばしてきたので、どうにも踏ん切りがつかないのだった。
「よし!」
気合いを入れて頬を叩いた依依は演習場に向かう。
まずは身体を驚かせないために浅い屈伸や背伸び、跳躍をする。
そうして準備を整えると広い演習場を歩いてから、少しだけ遅めの速度で走ってみた。
春の陽気は温かく、遠くからは風に乗って花の香りがした。
四半刻ほどの運動を終えたあとは、更衣室にて手早く着替えを済ませる。
朝の運動としては些か物足りないが、このあとの仕事もあるので致し方ない。
「あ、おはよ依依。もぬけの殻だから分かってたけど、また負けた」
「おはよう
汗ばんだ衣服を洗濯籠に入れたところで戸が開いた。
だらしない風体の武官が多い中で、髭もきれいに剃った涼はすっきり爽やかな好青年といった風貌だ。
破顔する涼に、足音に気がついていた依依は落ち着いた笑みを返すものの。
(涼、少ーしずつ起床時間が早くなってるわね……)
彼は妙に依依に良くしてくれるのだが、感化されたのか早起きに挑んでいるらしい。
着替えている場面を見られれば一巻の終わりなので、気をつけなくては。
「今日の朝飯は何かなぁ」
「夕べの
「あれならいくらでも食えるな。俺、おかわりしちゃったし」
言いながら服を脱ぎ、着替え出す涼。
男の裸体を目にしたところで頬を赤らめるような可愛げはない依依だが、一応は気を遣って、わざとらしくない程度に目を逸らして伸びをしたりしている。
涼は依依と共に清叉軍入りしたひとつ年上の青年で、即ち同期である。
武官登用試験では、依依の他に九名の合格者が出た。
選ばれた九名は、全員がなかなか良い動きをしていたり、体力があったり、根性があったりと……依依も「おや」と目に留めた人物ばかりだった。
どうやらあの土煙の中でも、試験官の宇静は見るべきところは見ていたらしい。
そこは素直に感心したのだが。
(
怒ったような彼の顔つきを思い出すと、胃の底がむかむかしてくる。
思い出すのは、数日前の出来事である。
『あのう、将軍様』
六日目の朝。
またまたお付きを連れて偉そうにやって来た宇静に、依依は話しかけた。
女が武官の職に就くのは許されないことだ、と涼に教えてもらった。
依依にも常識というものはある。男だらけの巣窟で女が性別を偽るのが、褒められるべき行為でないことも分かっていた。
頭上から睨みつけてくる宇静の視線は鋭いが、至福の
試験のやり方は気に食わないものの、宇静は決して、話の分からない人ではない――と。
どんな処罰があるか分からないので、女なんですと馬鹿正直に明かすわけにはいかないが。
『私、武官になりたかったわけではなくて。実は、その……』
『……はっ』
だが言いかける途中に返ってきたのは、短い嘲笑で。
ぽかんとする依依に、宇静は見下す目つきで言い放った。
『やはりこんなものか。生意気なことばかり言っておいて、すぐ音を上げるとは』
……なんだと?
宇静の嫌みったらしい言い様に、依依はむかついた。
『そんなことは一言も言ってません』
『そうか。俺にはそう聞こえたがな』
『お若く見えるのにお耳が遠いようですね』
『…………斬られたいのか?』
『そのような趣味はありません』
『ふん。明日には逃げ出していなければいいが』
『だから、逃げ出しません!』
売り言葉に買い言葉。
最終的には依依の無礼すぎる物言いに、
忙しいのかそれ以降、宇静は清叉寮には姿を見せない。
話はできないままになったが、それでいいと今の依依は思っている。
(武官として名を上げて、あのいけ好かない男の鼻を明かしてやるんだから……!)
赤銅色の瞳は煮えたぎるような怒りに燃えていた。
「依依、そろそろ飯行こうぜー」
「行く!」
だがそれとご飯の話は別である。
着替えを終えた涼の誘いの言葉に、依依は大きく頷いた。
朝昼夕の食事の時間は、依依にとって何よりの楽しみだ。
広い食堂の席はほとんど埋まっていた。朝餉の時間は決められているので、これを逃せば食いっぱぐれる羽目になるからだ。
しまりのない顔で欠伸をかみ殺す彼らの隣に並んで、依依は皿の上に料理を盛っていく。
本日の朝餉の献立は、白粥に蒸し鶏、卵にザーサイだ。
(ああっ、また卵!)
積み上げられた白い卵を目にしたとたんに、依依の瞳はにわかに輝きを増す。
寒さが厳しい辺境の土地では、とてもじゃないが鶏は飼えなかった。
ただでさえ腐りやすい卵は、都でもほんの一握りの裕福な家でしか味わえない高級食材だという。
だからここに来て、初めて丸い卵を手に握ったときは感動したものだ。
他の新入りたちもみんな瞳を潤ませていたので、みんな気持ちは同じだっただろう。
文官に比べれば武官は薄給だという。
だが三食の食事は美味しいし、少々寝苦しいものの寝場所だって提供してもらえる。
もはや依依にとっては桃源郷である。
(お粥は麦飯じゃなくてほとんど白米だし!)
小振りの卵は片手で割り、小鉢に入れてかき混ぜる。
箸を使って白粥にとぽとぽと落とせば、黄色くとろみのある模様が広がっていく。
台所番が調理したばかりの白粥は温かいので、しばらくわくわくと待っていれば、かきたま粥のできあがりである。
「美味しい!」
椀ごと手にして、にこにこしながら単純な感想を口にする。
子どものような屈託のない笑顔を見せる依依に、隣の涼が楽しげに笑っていた。
「本当に美味そうに食うな、依依」
「だってすっごく美味しいから」
「試験のときもすごかったよな。将軍が隣に居るのに、ぱくぱくぱくぱく」
そのときの話は、同期の間では半ば武勇伝扱いされている。
依依としてはただ食事していただけなのに、なんとも不思議な話だ。
ザーサイをぽりぽりとかじりつつ、たまに白粥にも入れて彩りと味に変化を加える。
涼との食事は楽しく、会話は弾んだ。白粥はこっそりと五回おかわりした。
そして楽しい朝餉のあとに待っているのは、武官としての仕事である。
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