第8話.大食いします

 


 腹が減った、と。



 羞恥心もなく真顔で言ってのける依依に、この事態を見守る宇静の部下たちが口元を押さえた。

 じろりと宇静が睨めば慌てて居住まいを正すものの、何人かの唇の端がひくひくと動いている。


「状況を理解しているのか?」

「はい、もちろん。動き回ってお腹が減ったんです」


 ぶふっ、と誰かが噴き出した。

 真面目な顔で返す依依だが、質問と回答がまったく噛み合っていない。


 宇静の視線の温度がさらに下がる。


「……ほう。俺は剣を抜くつもりだったんだが」

「でも将軍様との勝負は、食事を差し置いてまで重要とは思えないし。だって試験は終わったんですよね」


 彼のこめかみに青筋が浮かぶ。

 倒れている受験生たちは笑壺に入り、全員が地面を転がって笑っている。

 部下たちは全員が今や真っ青な顔をしていたが、そんな彼らに宇静は一層低い声で命じた。


「……飯を持ってこい。今すぐにだ」


 そんな宇静の一声によって。


 演習場に運び込まれてきたのは、大量の白い饅頭マントウだった。

 彼の部下によって持ち込まれた簡素な台が二台。

 その上に、盆を持った女官たちが忙しなく饅頭の入った皿を並べていく。


 座るよう命じられ、台の前の椅子に大人しく着いた依依だが。


「あれ? 試験官様も食べるんですか?」


 隣の椅子には宇静が座った。

 答える声はなかったが、そのつもりらしい。


 宇静は真剣での勝負ではなく、大食い勝負で生意気な小猿を黙らせてやろうと画策していたのだが――無論、そんな意図が依依に察せられるはずもない。


(この人もお腹空いてたんだわ)


 むしろ終始苛立った様子だったのは、空腹のせいだったのではないだろうか。

 そう思うと同情の気持ちが湧き上がる依依。誰だって、お腹が空いていれば険しい態度になるものなのだ。


「ちなみにこれ、ですか?」

「…………」


 宇静に話しかけたつもりだったのだが無視され、彼の後ろに控えた童顔の男が教えてくれた。


「費用はこちらで負担しますよ」


(やったぁ! ただ飯!)


 思いがけない言葉に、ますます元気になる依依である。


(食べ物を振る舞ってくれるなんて、この将軍様、実はいい人なのかも……)


 そうして、ひとつずつが依依の顔ほどもある、大きな饅頭が大量に台の上に載せられると。

 宇静の部下たちや受験生たちが、固唾を呑んで見守る中――なぜか銅鑼の音まで鳴らされた。


 猛然と食べ始める宇静の隣で、依依もさっそく顔の前の饅頭を手に取ってみる。


 幼い頃から武器を握ってきた手の皮は分厚い。そのおかげであまり熱いとは感じない。

 ひとつ目に勢いよくかぶりついたところで、依依ははっとした。


(これ……饅頭じゃない!)


 匂いからしてもしかして、とは思っていたのだが。

 一口を食べてから半分に割ってみると、なんとそれは具材がたっぷり詰まった包子パオズだった。

 辺境での暮らしでは、中に具材の入っていない饅頭が主流だったので、これは嬉しい誤算である。


(しかも、美味し~い!)


 うっとりと頬を緩ませてしまう。

 今ならば頬が蕩け落ちてもいいかもしれない、なんて馬鹿なことを思いつつ、次から次へと包子を手に取っていく。


 皿が空になるたび、女官たちはほかほかと湯気の立つ皿を置いていくのだが、依依が平らげる速度にはまったく追いついていない。

 宇静のように大口で食らいついているわけではない。ただ、小動物のように頬張り、もぐもぐと何度か咀嚼したかと思えば、そこはあっという間に更地になっているのだ。


「すげえ、大食らいの小猿だ!」


 見物人たちから歓声の声が上がる中。

 いよいよ耐えきれない様子で宇静が口を開いた。


「…………おかしいだろう」

「何がですか?」


 ぺろりと何個目かも分からない包子を食べ、甘じょっぱい指を舐める依依。

 こんなに美味しい包子を食べているのに、なぜか宇静は食べ始める前よりやつれているように見える。それに目の前に積み上げられた包子の山は、あまり減っていないようだ。もったいない。


 とか思う依依だが、宇静も奮闘していた。彼は既に十五を超える包子を平らげている。

 だが、残念ながら、その数は依依の半分にも及ばない。


「お前の外見からして、胃袋の容量は俺より少ないはず。それなのになぜ、そのような破竹の勢いで食べ続けられるんだ」

「だって美味しいんですもん」


 答えになっていない、と掠れた声で宇静が呟く。すっかり彼の手は止まっている。


 しかし、食べられるときはいくらでも食べておくのが依依の鉄則なのである。

 いざというときに空腹で力が発揮できないでは困るし、言い訳にもならない。それで首を獲られれば目も当てられないのだ。


(でも……)


 いくらお腹が空いているといっても、まさかこうして宇静と食事する羽目になるとは思わなかった。

 だって彼は皇族の一員なのだ。実はシャク家の姫であるといっても、現在はただの依依と名乗っている娘と肩を並べて食事をするなんて、本来はあり得ない立場の人ではなかろうか。


 しかしそれを、彼は迷わず実行したのだ。


(ちょっと、面白い人なのかも)


 それに依依に負けず劣らず、かなりの負けず嫌いと見た。

 そう思うとほんの少しだけ、宇静を見る依依の目も和らぐのだった。


 そんな最中、宇静がぽつりと呟く。


「…………認める」


 何を、と言い返す暇はなかった。


「この勝負は、俺の負けだ」


 それはもしかすると、歴史上初めてかもしれない。

 清叉軍将軍ともあろう人物が、一介の受験生に敗北を認めた瞬間だった。


 見物人と化した受験生たちから、一際大きな声が上がる。

 狂乱の渦の中心で、しかし依依は未だに包子を頬張りつつ思っていた。


(この勝負って、どの勝負?)


 都の人は、ご飯を食べることを勝負だと言うのだろうか。

 首を傾げる依依に、木簡を手にした宇静がさらに告げる。


「お前を清叉軍つきに任ずる、楊依依」


 ますます大きな歓声が上がる中。




(…………………………なんですって?)




 ――もぐ、と最後のひと欠片を口の中に入れる。

 どんなに驚いても食べ物を粗末にしないのは、依依の矜持であった。



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