悪魔の戯言、或いは最後の挽歌 作:常夜
『神がいようがいまいが、人のすることは変わらない。』
家の外から聞こえる礼拝の声で目が覚めた。寝室にある窓の外から差し込む光と合わせてもう朝であることを示している。ここの立地条件は隣の礼拝堂を除けば、完璧なのにと毎日思ってしまう。祈りを捧げているという事に対しては特にケチをつけるつもりはないのだが、如何せん時間が早すぎるのだ。それに、基本的に私は宗教が嫌いだ。多神教ならまだしも、一神教はもってのほかである。何が悲しくて数多の人間の願いを、しかも一人でわざわざ叶えなければならないのか? 社畜以上の苦労人ではないか。その神の願いこそもっとも尊重されるべきだろうと思う。ただ、その願いが人々の救済である時点でこの話はループしてしまうのが唯一の難点だ。全くもって自己犠牲の精神がすごい神様である。その点だけは尊敬しようと思う。
あくびを噛み殺しながら寝室を出て、朝食を作るためにキッチンに向かう。引っ越した時からこの家に元々置かれていたキッチンは自分にとって可もなく不可もなく、というところだ。少なくとも今までの料理をするうえで困ったことは何一つない。汚れだらけの燻製器を見つけた時はさすがに閉口したが。
フライパンで炒めたソーセージと卵焼きをさっと皿に乗せ、パンと冷蔵庫から取り出したサラダとともにテーブルの上に並べる。調理の間にコーヒーメーカーが作ったコーヒーを取り、いざ食事だというときに、テーブルの向かいに何かが座っていることに気づいた。
それは人間だった、というと違うか。詳しく言うならば、紳士の服装をした蛇頭の人間が買った覚えのない椅子に座っていた。テーブルの端には帽子が置かれており、彼の前には見たこともない色の液体が入ったコップが置かれている。もちろん私にそんな変な知り合いはいないし、コスプレ好きの知り合いもいない。彼は私に目を向けようとせず、家のさまざまな所にその視線を向けていた。やがて、私が見ていることに気づいたのか、彼は私を見て、笑顔――私は蛇の笑顔を知らないが、おそらくこの顔がそうだろうと思う――で話しかけてきた。
「あぁ、驚かせてすまないね。とても居心地がよさそうな家だったからついつい入ってしまったんだ。何、変なことはしないよ。あまり気にしないでくれ」
あまり気にしないでくれ?こんな空想上の怪物のような存在を前にして、おいそれと朝食をとれるほど私は肝が据わってなどいない。かと言って、出ていけと追いだすほどの勇気も持っていない。少しためらった後、私は無難な質問をいくつか彼にした。
「…あの、あなたは?どこからここへ?」
「私は…、うーん名前までは考えてなかったな。とりあえず適当に呼んでくれて構わない。どこから来たかについては…、そんなことは気にしなくていいとも。ああ、ご飯もいらないよ。礼拝の声がうるさいと思っている君と話がしたかったのだ。大丈夫。話をすればすぐ帰るさ。」
蛇の舌を出しながらも、「彼」は流暢に話した。その姿がコスプレとはどうも思えなかった。どちらにせよ質の悪いいたずらには違いない。私はとりあえず話を続けることにした。
「…話とは?」
「神について。…ああ、宗教勧誘などではない。安心し給え。私はその手の話が逆に嫌いなんだ。如何せん悪魔なのでね。勝手に悪にされるのは好きじゃないのだ。」
なんだ、こいつは。人の家に突如現れた挙句、神だの宗教だの訳が分からないことを言う。いったい何がしたいのだろう。少なくとも朝食をしながらする話ではないはずだ。ふと何かのネタにはなるだろうかと思った。朝食を食べながら悪魔と神について話し合ったのだ、と。…ダメだ、変な人扱いされて終わりの未来しか見えない。色々な思考が積み重なってきたので、落ち着くためにコーヒーを飲みながら彼の言葉を待っていた。彼は私のそんな様子を見て言った。
「君は神を殺したいと思ったことはあるかね?」
思わず口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。どうにか飲み込むが、むせこんでしまう。急に中二病臭い事を言い始めた。
「何を言うかと思ったら、ゲームか何かですか。」
悪魔もゲームとかするんだろうか。ふとどうでもいいことが頭を過った。
「そんな話ではないな。現実の話さ。隣の礼拝堂にもいるではないか。」
「それなら、特にそうは思いません。そもそも興味がないので。」
「だろうね。だが君が神を殺したいのなら、一つだけ方法がある。聞きたいかね?」
別に、と答えたかったが、そう言われれば気になってしまう。悲しいかな、それが人の性だ。
「…一応気になりますね。何です?」
蛇男は舌を出し、そして戻した。そして言った。
「宗教だよ。」
宗教が、神を殺す?全くもって訳が分からなかった。長い沈黙の後、蛇男は再び話し出した。
「そもそも、彼らは神を何だと思っているのだろうね?」
半ば不意打ちのような問いかけだった。神とは何か。答えを出そうとして気づいた。果て、神とはいったい何なのだろう?とりあえず当たり障りのない回答をする。
「それは、人智を超えた存在とかでは?」
「そうだろうね。ただ、人智を超えているなら、人類には理解できないわけだ。それなのに、彼らはそんな存在を認識し、言葉をささげている。おかしいとは思わないかね?」
男は尋ねる。私には彼が何を言いたいのかわからなかった。
「理解と認識では少々語弊があるような気がしますが…。」
「ふむ、確かに一理あるな。しかし、認識というのはその対象を自分と同じ次元に移動させるという事ではないかね?そもそも理解の始まりに必要なものは認識だよ。認識できないものを理解することはどんな人間にもできない芸当だ。」
そうかもしれない、と私は思わず納得してしまう。やけにこの男の言葉は明瞭に聞こえる。これが悪魔の誘惑という奴だろうか?
「しかし、宗教がどうして神を殺すのですか?むしろ宗教は神を生かすのでは?」
「それはだね、人という種族の性質によるものだよ。誰一人として同じ人間はいない。世界には、様々な人間がいる。神を信仰するにあたって、その事はある致命傷を生み出してしまう。」
「何ですか?」
彼は手元の飲み物を少し口にした。おいしそうに飲んでいるが、あれはいったい何なのだろう?私の疑問をよそに、男は再び話し出した。
「神が対応できなくなるのだ。信仰を行うという事はいわば、太陽光をレンズで一点に集めるようなものだ。人々の苦しみを神という存在を用いて救いに収束させる。問題は人々の苦しみ全てを収束できないことだ。太陽光を一点に集めることはできるが、それは全ての太陽光じゃないだろう?そんな事をするのは不可能だし、できたとして現実的ではない。当然信仰についてもそうで、神がすべての人を救うことはできない。そもそも人間の認識の世界に引きずりおろした時点で神は人間が持つ認識のフィルターで劣化しているというのに、それを容量超過でさらに劣化され、より神は弱っていく。ははは、皮肉なものだ。神を讃える方法で彼らは神を殺しているのだよ。」
それは、彼らにとってずいぶんと皮肉な話だ。…それが真実であるならばだが。だが、どちらにせよそんな単純に神は死なないだろうとも思う。一人で世界を作り出すぐらいの力はあるのだから。
「…そんな簡単な事で神が死ぬでしょうか。」
「確かに、それだけでは到底死なないな。神とて無力ではない。だが、人というのはどこまでも恐ろしいものだ。『異教』『異端』という言葉は知っているだろう?」
「もちろん。……それが何か?」
「うむ、人は自分が属する集団と違う集団に対して時に攻撃的になるときがあるね。宗教では異教徒やら異端者やらと呼ばれるだろうが、それは火種がそこら中に湧き出ることでもある。そして、そこに、何でもいい、火を投げ込めば?」
「…爆発するでしょう。」
「そして起こるのは?いがみ合い、虐殺、絶滅戦争…。うむ、ありとあらゆる悪夢だ。しかもそれを神の名で正当化して神に押し付けていくものだから、神にとってはたまったものじゃあないね。人を救えば救おうとするほど、その身は人の欲に巣食われていくのだから。おっと、これじゃただのジョークだ。」
そう言って、彼はクククっと笑った。私は笑えなかった。ジョークのひどさもあったが、笑えるほど他人事でもない話だった。彼はそんな私を見ながらも話をつづけた。
「そもそも、君、神はよく言うではないか。祈らば救われる、良いことをすれば救われる、罪を懺悔すれば救われる。そんな気前がいい言葉を吐いて、神は人の穢れをその身に受け続けている。いくら神が偉大だとしても、あれじゃあいつか壊れてしまうよ。人類は甘えすぎたんだ、全能という言葉の意味に。人智を超えた存在の価値に。」
私は何も言えなかった。ここまでくると、彼の言葉は私の理解を超えているように感じた。なのに、彼の言葉は心に染み入ってくる。理解できないものであるのに、分かってしまうのだ、それはとても恐ろしいことだった。そんな私の感情に気づいたのか、彼はこちらを心配するように言った。
「ふむ、君は悩んでいるね。もしかして、こんな話を聞くべきではなかったと思っているのかな?神がいなくなった後の世界について考えているのだろう?」
「…わかりません。私はこの言葉を理解していないのでしょう。しかし、分かってしまっているようにも感じます。…何なんでしょうね。」
「うーん、そこまで君が気にすることではないだろうに。君はその神を信じているわけではあるまい。それに、私はさっきも名乗った通り、悪魔だよ、嘘をついている可能性もあるじゃないか。すべてを疑う事も悪だが、すべてを信じることもまた十分に悪だよ。それに、神が死んだとして、何が起こるのだ?彼らは今までそれをさんざんに傷つけてきたじゃないか。ならば、死んだとしても何も変わらない、変わらないさ。何も知らぬまま彼らはその汚れた手を神の死体に押し付けるだろう。」
私は何も言えなかった。その時の彼の言葉は合理的に感じられた。後から思えば、論理の穴の一つや二つあったかもしれないが、そんな難しいことはわからなかった。私は宗教の専門家ではないのだ。それに、専門家だったとして彼に言い返す論理があったとは思えなかった。彼らは神の言動について触れて反論するだろうが、それは人の言葉に過ぎない。その時点で、おそらく悪魔である彼の意見とはすれちがってしまうだろう。そう考えていると、彼は壁にかかっている時計に目をやり、手元のカップの液体の残りを飲み干すと、帰りの準備をし始めた。
「おや、少し長居をしてしまったようだ。ふむ、君とはなかなかいい会話ができたよ。礼として、この椅子は置いていこう。売るなり使うなり好きにし給え。」
そう言って彼は立ち上がった。彼が座っていた椅子は質素なもので、そこまで変なものではなかった。彼はテーブルの上に置いていた帽子をその蛇の頭の上につけると、玄関に向かって歩いて行った。私はその場に立ち上がったが、足は動かなかった。動けなかったのか、動かそうと思わなかったのかは分からない。
立ち去る彼に向かって、私はふと一つ質問を投げかけた。
「もし、神を救うとしたら、どんな手があるでしょうか?」
彼はその場で立ち止まった。少しの間考え込んだようで、静寂の後に彼は言った。
「そんなことは今まで考えたこともなかったな。だが、まああるとするなら…」
彼は振り向いた。私の目と彼が持つ細い目が合う。
「忘れることだ。すべて、何もかも。」
そして、彼は消えた。
彼がいなくなった後、疲労感がどっと来るのを感じて私は再び椅子に座り込んだ。結局彼は何だったのだろう。本当に悪魔だったのだろうか、もしくは神か。
「…どっちでもいいか。」
少し冷めた朝食を私は平らげ、片付けが終わった後に私はふとリビングの窓を覗いた。そこはちょうど教会のステンドガラスの一つが見える位置だった。ステンドガラスの模様は羽をはやした人の絵となっている。あれが彼らの信仰する神の絵だっただろうか。最初それをぼんやりと見ていたが、そのガラスが割れているように見え、私は目を見開いた。何度かの瞬きの後、もう一度ガラスを見る。ひび割れは見当たらなかった。
『神が死んだとして、何が起こるのだ?彼らは今までそれをさんざんに傷つけてきたじゃないか。ならば、死んだとしても何も変わらない、変わらないさ。』
私はため息をつくと、耳鳴りのように響く言葉を頭から追い払った。そして、散歩でもして気を紛らわせようと外に出る準備をし始めた。
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