桶狭間 作:樋口橙華

 雹の混じった大雨が中島砦の外を青白く覆って城の影を隠した。雨粒は木の葉や水溜や幾度となく踏まれて硬くなった土を叩いて響かせ、この雨は何らかの兆しであろうと考える庄九郎の耳はこの音のみ聞いていた。庄九郎は一週間ほど前に再び招集をかけられた雑兵である。足の悪い父に代わって父母弟妹を養うには、自ら皮革の鎧を身にまとい、息絶えた落武者が握っていた長槍を直し、稽古をして、戦場で功を認められることしか庄九郎の頭には思い浮かばなかった。しかし、二年前の品野城攻めに参加した時は、これは自分には到底できるものではないと悟って早稽古を重ねた槍を振るうこともなく逃げ帰ってしまった。それゆえ、庄九郎は、今度は少なくとも一人討ち取り、それが将であれば大いによし、そうでなければ刀でも貰って、それを売れば少しは生活も楽になるだろうと考えていた。そうして率いられるままに田の間の細道を通り東に歩いて、やってきたのは中島砦であった。

 砦には二千人ほど集まり、この大雨に音と影を隠しながら進むのか、雨やみを待って水を切りながら槍を振るうのか、どちらにせよ、近いうちに戦闘が始まる雰囲気を感じていた。庄九郎の目には、雨粒の散りばめられた青白い空の他に、四方八方に丸太を並べて立てた木塀と、ほとんど同じ格好をして、長槍か、弓か、刀を持っている足軽が見える。鉄砲を携えた者もいたが、この大雨で使う気力が失せて、輪になって雑談をしているようである。庄九郎は、この足軽たちも、我こそ功を上げに来たというような顔をしながら、城の中にある宝をなんとかして我が物にしようと企んで、闘争心をくすぶらせているのだろうと解した。


 大雨は人の気を引けなくなると小降りになった。木塀の隙間から目標の城と、その麓に数時間前に落ちたのだろう、鷲津砦が所々に煙を上げているのが見えた。中島砦の内側は鎧同士のぶつかり、擦れる音がし始めた。まもなく出陣するのだと、恐怖心と先ほどとは別の闘争心が腹の中で闘いはじめ、そこで勝者が義務感の支えを受けて勇気へと昇華する。二千人の大隊は蝮を模して、砦の門から顔を出した。

 真っ直ぐ城へ向かうと渡河の気持でいた足軽たちは、進路が東であることに困惑した。目標の城が右目の端へ寄っていき視界を外れ、ついにはほとんど背を向けている。雨で大いに濡れているのだから、川を回り込むなど不要、渡河を嫌がる理由もなし、ただいたずらに時間を浪費し、鷲津砦の戦いから解き放たれて間もない彼らに身構える時間を与えてしまうと直感したのである。しかし、庄九郎は、父の話を思い出していた。


 庄九郎の先祖は北面武士であったが、承久の乱以降の規模縮小により転々と尾張国まで流れてきて牢人となって存続してきたが、代々負傷が多く、また戦の少ない時期など、財政難に呑まれて失職し、田を営まざるを得なかったが、経験と知恵は受け継がれ、庄九郎の武術は人並みでも、戦の知識は熟練のものであった。庄九郎の思い出した言葉は、簡約してこのようなものである。

 「何代か前のご先祖様が徴収を受け、戦場に出向いた時の事である。両者砦を構えて向かい合い、さあどちらが攻め、どちらが守るか、大将の決断に委ねられた。敵勢力がこちらと同等であるならば、攻めた方が負けると思ってよい。砦という防御設備をあちらが有する中、こちらが持ち運べる程度の攻城兵器を有していたとしても、人の業では埋まらない差が存在する。この時の大将は冷静で、籠城の構えを取った。しかし、砦を攻めてくる素振りはなく、数日が経過した。日を経るごとに、補給は薄くなりご先祖様の属する足軽隊は飢え始め、本陣から馬が来ては、砦はまだ落とされないのかと圧がかかる。敵方もまた同じ状況で、我慢比べの様相を呈していた。

 ある日のこと、侍たちが慌ただしく動き始め、対象の砦とはまったくかけ離れたところへ移動し始めた。何も知らない兵卒たちは戦局がまったく動かないものだから、砦を捨てて敵本陣へ仕掛ける戦力を集めることにしたのだろうと推測したが、到着したのは目標の砦の傍の林であった。合図を受けて砦に押し入れば、先鋒によって制圧された砦があるのみ、こちらと同数いたはずの敵勢力はつい先日までこちらが入っていた砦へゆっくりと進軍し、後続がこの砦に入るまでの数時間、こちらと周辺の砦で包囲した状態にあるとわかった。この後の会戦は無事勝利し、ご先祖様と同胞の足軽たちは難なく帰還した。

 後に聞けば、飢える兵卒を見かねた被官様が大将に迂回の提案をしたということであり、その被官様は国民にたいそう称えられたのだという。この戦術的迂回は敵がのこのこと進んできたならば包囲し、進まずにいても空の砦と戦っている事実は将兵の精神を苦しめ、規律が乱れ、機能不全に陥った砦を攻めるので勝算が得られる。勿論多用すれば対策も立てられてしまうので、近頃の戦がどうあったのか、知れる限りは知るようにせよ。」

 中島砦の足軽たちは経験が豊富な者が多かったので、近頃の戦がどのようであったかは庄九郎の耳には労せずとも聞こえてきた。庄九郎は、それらと照らし合わせて、今この城を背に進軍する形態は、話に聞いた迂回であると察知した。つまり、鷲津砦を落とした状態の強者たちと戦わなくてよいのである。もし彼らが中島砦まで進んできたならば、お城の将兵は空になった鷲津砦に割かれるのである。そこでお城へ直接攻撃すれば先鋒が戦って、庄九郎のいる中衛は城内を比較的安全に探索することができる。何たる幸運!庄九郎はこのことを隣でこれから何処へ向かうのかまったく見当もつかないというような顔をして歩いている一つ、二つほど年上の同胞に教えてやりたくなったが、言ったところで夢を捨てきれない新参者が、己が妄想を高らかに語っているのだと思われてしまうかもしれない。そうすると、せっかくいい気分をしているというのに、それを壊されてしまう。これは避けられるのなら避けたいものである。庄九郎は黙って歩くことにした。


 足軽たちが無心で歩いていると、先頭が南に折れた。庄九郎が迂回を確信したのもつかの間、隊列は形を変えた。戦闘前の形態である。庄九郎は確信する対象を変えなければならないことを察し、落胆と焦燥の生出抑え難く、遍満する勇気は恐怖の反撃を受けた。

 「攻撃には敵の殲滅、陣地の占領と明瞭な目標があり、防衛はそれを被るという認識に陥りがちだが、そうではない。防衛が敵を殲滅してはならないという戒めはないのである。私の叔父上は弓を良く扱い、狩猟の名人であった。それゆえ足軽として徴用された時は専ら弓足軽として参戦した。

 砦防衛の際、その弓の功著しく、また小頭の死傷にともない、小頭を任された。総大将は砦の防衛に成功して気を良くし、また援軍の到着により有頂天になり、反撃を決断した。時を同じくして、敵の大将もまた、砦の消耗は十分であると本隊を向かわせ、平原での戦闘が予想された。叔父上は弓組頭に提案し、六人の秀でた弓取を連れて傍の林に身を隠し、斥候が向かってくると予測して待ち伏せをしたところ見事的中し、その頃本隊はというと、平原に盛土し、その後ろにて待ち伏せしていた。この待ち伏せを斥候に知られることなく、敵本隊は予想よりも二、三町早く接敵し、戸惑い、返り討ちにあったという。待ち伏せとは防衛の奇襲である。戦いは予想外の一手で相当な戦力差がなければ大勢をひっくり返すことが多い。逆に、敵の動きが手に取るようにわかるのであれば、大勢はこちらにある。」

 庄九郎はこの父の教えを思い出していた。おそらく今ここでの戦闘は総大将の意思に反する。待ち伏せを受けたのだと庄九郎は悟った。


 陣貝が鳴った。恐怖を押し殺す者共の叫びが膨れ上がり、平原を覆った。皆が走り、その横を馬が駆け抜けてゆく。庄九郎は丸の内に二つ引両の旗を見たが、人影を確認するまでもなく倒れてしまった。

 白兵戦が始まった。庄九郎は足元に転がる死体を跨ぎ、一人が刀をもう一人の腹のあたりに刺す瞬間を見ると人の所業とは信じ難く、これを平然と行う侍たちの正気を疑う気持、地獄とはこのような場所であろうと思うには十分である。しかし庄九郎は一族の誉れと家族の生活を背負う者、ここで何か一つなしえなければ今年の実りによっては今被っている皮革を二束三文で売り飛ばし、弟やいつの日か侍を志す子孫に諦めを強いることになりかねる。

 庄九郎は足に力を入れ、槍を握りしめ、丸の内に二つ引両を目掛けて突進したところ何かに刺さった。重く、絞り出されるような声を聞いて、槍がずっしりと重く手で支えきれぬほどになる。十七か八の男が寝たまま庄九郎を睨みつけ、庄九郎は目を合わせた。自分の中でくすぶっていたものが消え失せ、腹にポッカリと穴が開いたような気持になった。庄九郎は体が重くなり、頭がグワングワンと揺れる気がして、膝から崩れ落ちた。視界がぼやけ、背骨が体を支えるのを拒み、額を地に打ち付け、土を一撮みほど食べた。胴のあたり全体にかけて鈍痛がして、胸のあたりが戦場から逃げるときに全力疾走した時のように熱く、寒気がした。庄九郎は、母上に握り飯を持たせてもらっていたことを思い出した。あの生まれた土地の味を、どうしても味わいたくなり、右手を伸ばして、握り飯の入った布を掴んで、口に運んだが、硬く、粒の大きさがバラバラでべちゃっとしていて、肝心な味は、先ほど口にした土と変わらなかった。

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