「講評」 オダ 暁

 やなぎじろうの「喪章」を一読して、なんともいえぬ戦慄が体を駆け抜けた。

 幻想的なメルヘンを描いているようでその裏に漂っているものは、生と死のぎりぎり境界線上を歩む危い人間の姿である。死の化身である若い女は何の前ぶれもなく現れ、鏡に映る己の真実の姿を男に知らしめるのだが、それは肉や皮のない骨だけになった自分と向き合うことだった。

 あらゆる虚飾を身体から取り除いたおぞましい己の姿、すなわちそれが現実であり粉うまごことのない真実なのだが、往々にして人はそれらと対峙することを無意識に避けて、飾られた偽の自分の姿を真実だと思いこもうとしている。これはある意味で処世術の一つではあるが、けっして賢明な策とはいえない。だまし絵を片側からだけ見てその絵を識った気になるようなもので、やはり錯覚にすぎない。現実はこの錯覚がおびただしく横行している世界であるが、「喪章」は幻想あるいは夢物語でありながら人の世の真実というものを浮き彫りにしている。

 三連目の「女の白い手」の比喩がうまい。喪章はふつう黒色の布をいうが、敢えて白い喪章としたところに心憎いまでの作者の柔軟な発想が伺い知れる。既成概念に捉われない、しかし人生の深淵を鋭く探りえる作者の眼が行間のそこかしこで光っている。

 ロマンティックな物語仕立てに詩を構成しているが、その奥に潜むものはほろ苦く切ない人生の哀愁であり、断じて甘ったるいものではない。この作者は死を生の同一線上として受けとめ、現世に生きながら尚、意識の水面下では死の世界にもその身を委ねているのではなかろうか。生と死を一枚に描いただまし絵にけっして欺かれることのない、真摯な作者の姿を私は想像する。

 終連の「ねえ、僕たち前に愛しあってたの?」という台詞は少々陳腐なようにも思えるが、おそらく作者は故意に重々しい締めくくりを避け、読者をしてこの男と女の過去から現在にたどるイマジネーションを呼びおこせしめたのだ。二人がこの先どうなるかは謎のままで、えもいわれぬ不思議な余韻が心に残る。ミステリアスな詩である。このような作品はえてして正統と認知されづらく異端扱いされがちだが、なかなかどうして人一倍の想像力と力量がなければ、おいそれと書けるものではない。一見風変わりな人間が、淡々とした風を装って意外と人生を深く洞察しているものだ。

 やなぎじろう氏は実は女性、御歳は既に喜寿を越えてらっしゃるとは到底信じられない。大袈裟に言うつもりはないが、驚異すら感じてしまう。それ程瑞々しい感性の持ち主だと、私は理解している。

 

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