第16話 ある日夫婦は鹿とたわむれて2
奈良公園。
明治13年開園、総面積660ヘクタール、園内には多くの国宝、世界遺産が点在しており奈良観光の醍醐味ともなっている。
園内を徘徊している鹿は約1200頭にも上り、毎年多くの観光客や修学旅行生が訪れる名所。
しばらく進んだところで、ついに第一村鹿を発見することができた。
「おお……」
全員の目が一斉に輝くのがわかる。
ミカなんかはもうすでにカメラをスタンバイしている。
僕も例に漏れず、ゆっくりと鹿に近づいていった。
その刹那、僕の横を一人の少女が駆け抜ける。
鹿に抱き着くようにしてすり寄ったのは他でもないミカサちゃん。
目を細めて表情を溶かし、両手で鹿を抱いている。
その姿は天使を彷彿とさせ、これ以上可愛いものはこの世にないと思えた。
やはり可愛い+可愛い=カワイイになるのだな。そう心の底から思う。
気づくと、僕はカメラを手にし、シャッターを切っていた。
画面をのぞき込み片目をつむる。
そして、天使の写真を一枚、フィルムに収めた。
他の四人も同じく、その姿にシャッターを切る。
これは不可抗力だろう。
こんなに可愛いものを見て写真に収めないほうがおかしい。
ミカサちゃんはその姿に気づいたのか、はっとして顔を上げ、少し頬を紅潮させ、こちらに戻ってきた。
そして僕の後ろに着く。
それとほぼ同時に鹿は角を曲がり、植木の影へと隠れた。
ふと横を振り向くと、ミカサちゃんと同じようにしてヒナタの背中に隠れるアオイの姿があった。
「どうしたの? アオイ」
「し、鹿が怖いんだよっ」
そういって少し頬を膨らませながら涙目になっている。
本当にこの子は男なのか。
というか、このプランを用意したのはアオイなのになぜ鹿が苦手なのか。
そんなどうでもいい疑問はさておき、
アオイは相変わらずヒナタの背中にしがみつき、びくびくしながら歩を進めている。
ミカサちゃんはというと、早く多くの鹿と
そしてついに角を曲がる。
その刹那、我慢できなかったのかミカサちゃんが僕の後ろから飛び出し、一面鹿の海に飛び込んでいった。
他の、アオイを除いた5人も飛び出し、我先にと鹿にカメラを向けている。
時間帯がジャストなためか、他にも多くの観光客がおり、外国人と思しき人物も数人見受けられた。
あちこちで歓声や悲鳴、子供の泣き声が聞こえ、大変にぎやかな様子だ。
これだけ大声をあげ、走り回っているのにも関わらず、おっとりと生活している鹿からはどこか寛大さも感じさせられる。
普通、鹿とは警戒心が強く、特に出産期の4月~7月の今頃は特に性格が荒くなっているはずなのだが。
それを感じさせない温厚さ。
これは人々が神格化したわけもわかるというものだ。
一方アオイは僕の隣で、身を隠すヒナタがどこかに行ってしまって以来、ずっと動かない。
顔が少々青ざめ、悲鳴などとおに通り越した様子だ。
これは放っておいても大丈夫だろう。何せ男の子だから。
そんな
ひとまずはミカサちゃんのもとへと駆け寄る。
「ミカサ先輩って鹿、好きなんですか」
「ああ、もちろんだ。動物は基本的に大好きだがその中でも鹿は格別だな」
そう癒されたように言うミカサちゃんの顔はとてつもなく可愛いかった。
写真を撮ろうとふと顔を上げたところで一つの屋台車のようなものが視界に入る。
こんな公園の真ん中で何を売っているのだろうか。
その答えはすぐに分かった。
鹿せんべいだ。
奈良公園に来たのであれば必ず買うもの、鹿せんべい。
これは間違いなく買いたいとミカサちゃんは言うだろうな。
そう思いながら、そのことをミカサちゃんに伝える。
「ミカサ先輩、あそこ見てください」
そういって屋台車を指さす。
ずっと鹿を撫でていたミカサちゃんが顔を上げ、僕が指さした方向を見るとみるみる目が輝いていくのが分かった。
やはり、顔に出やすいというのは分かりやすいものだ。
「あれは鹿せんべいではないかっ、買ってくれないか、ユメ」
そう言って少しずつ視線を僕の方にシフトする。
果たしてこのかわいい顔でおねだりされて断れる人類はこの地球上に存在するのだろうか。
少なくとも僕はあらがうことができず、その屋台車の方へと歩を進めた。
ミカサちゃんはその間にも鹿と戯れ、感無量の様子だった。
店員? と思われるおばちゃんに声をかけ、鹿せんべいを一束頼む。
一束十枚。
半紙のような細長い紙でせんべいが巻かれ、白い机の上に整頓されておいてある。
「はい、鹿せんべい一束ね。お兄さんは修学旅行中かい? 楽しんでいきなさいね」
「はいっ」
人当たりのいいおばちゃんだ。
僕が百円玉二枚を渡すと同時に鹿せんべいが手渡される。
ここで一つ疑問が生じた。
この屋台車は鹿せんべいが包装もされていないそのままの状態で並べてある。
こんなにたくさん餌があるというのになぜ周りにいる鹿たちは食いつかないのだろうか、と。
「おばちゃん、鹿たちはここに置いてある鹿せんべいを勝手に食べたりしないんですか」
「ああ、よく
なるほど。このおばちゃんたちが教えているのか。
すごいなおばちゃん。
「そうなんですね。勉強になりました、ありがとうございましたっ」
そう言って頭を下げ、鹿せんべいを片手にミカサちゃんのもとへと走って戻った。
「お待たせしました。これ、鹿せんべいです」
「ありがとう、遅かったな、おばちゃんと何か話してたのか?」
「はい、なんで鹿たちが勝手に鹿せんべいを食べないのかについて少し」
「ふ~ん。それはそうとユメも一緒に鹿せんべいあげないか」
そう言って束ねられている紙を外し、半分を僕に差し出す。
「ありがとうございます」
そう返して、それを受け取り、一枚右手に持ったところで前方の鹿が全速力でこちらを目掛け走ってきた。
「わっ」
思わず右手を差し出すと鹿はぶつかる直前で止まり、鹿せんべいを僕の手ごと食べ始めた。
鹿せんべいが割れ、つぎつぎに鹿の口の中へと消えてゆく。
僕の手がべとべとになったところで、また詰め寄られ、二枚目を鹿に差し出した。
その姿にミカサちゃんは大笑い。
こんなに笑っているお嫁さんは今まで見たことがないかもしれない。
その姿に見惚れていると、いつのまにか二枚目も食べ終わり、さらに三枚目を食べ始めた。
そこで後ろに隠している左手に違和感を覚える。
ふと後ろを振り返ると、別の鹿がどこからともなく現れ、残りの二枚を僕の左手から食べていた。
「ええええ」
完全に動けなくなる。
そのうち、僕が持っていた五枚は完食され、鹿たちはどこかへ去っていった。
「あはは、おもしろかったぞユメ」
「手がべとべとなのであまりうれしくないです……」
よほど面白かったのだろうか、涙が出るほどに笑っていた。
そしてそれがあだとなったのか、残りの鹿せんべい5枚を持った手を下ろしてしまった。
その瞬間、ミカサちゃんの背後にいた鹿の目が光る。
獲物を見つけたかのように。
その鹿は猛スピードでミカサちゃんに突っ込んでいき、僕が止めようとしたころにはもう、遅かった。
ゴンッ
ミカサちゃんの背中に鹿が体当たりし、その衝撃で鹿せんべいが手から離ればらまかれる。
「きゃっ」
短い悲鳴を放ち、ミカサちゃんが僕の方に倒れこんできた。
周囲に散らばった鹿せんべいを目掛け鹿が一斉に集まり、僕たちを取り囲む。
ついに僕までも倒れ、ミカサちゃんが僕に
なんだこの恥ずかしい恰好は。
こんなの他人には絶対見せられない。
ミカサちゃんも恥ずかしいようで懸命に僕から目をそらしている。
中学生男子の上に女の子が覆いかぶさる。
もしかするとこれはかなりまずい状況なのではないだろうか。
二人の顔がみるみる赤くなっていく。
鹿せんべいのおかげで周囲に鹿が集まっていることに心底感謝した。
これでなんとか僕たちの姿は見えていないのだから。
「すまんな……。ケガはないか」
「はい、大丈夫です……。それよりなんか恥ずかしいですね……」
「そ、そういうことを直接口に出すんじゃないっ、余計恥ずかしくなるだろう」
そうやり取りを行った後ミカサちゃんがゆっくりと立ち上がり、鹿が去ると同時に二人立ち上がった。
……。
しばらく沈黙が流れる。
「ミカサ先輩、写真撮ってもいいですか……」
「な、なんでこのタイミングなんだよっ」
「だめ、ですか?」
「まあ、別に構わないが……」
遠くに写る鹿と間近にいるお嫁さん。
みんなと合流する手前、また一枚天使の写真がフィルムに追加された。
「そろそろ移動しようか」
もはや石像と化しているアオイの前に全員が集まり、ナツメのその一言で続いての目的地「東大寺」へ向かうことになった。
かなりの時間ここで過ごしていたが、その間アオイが全く動いていないとは。
むしろ頬を涙が伝った跡がある。
どれだけ怖いのだか。
少々呆れながらも、ヒナタがアオイを背負い、移動を始めた。
ここから東大寺南大門までは直線の道を通って約240メートル先。
本殿はさらにそこから300メートルほど。
六人は少々べたべたする手で、奈良研修の醍醐味、『東大寺』に向かって歩き出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます