第9話 ある日未成年夫婦は初キスを交わして

「私に………………キスをしてほしい…………」


「…………へ?」


 その刹那、頭の思考回路が一旦全て停止した。

 ミカサちゃんが言った言葉の整理ができない。

 『キスをする』? 僕が、ミカサちゃんに?

 本当にそう言ったのだろうか。

 何かの聞き間違いではないのだろうか。

 しかし、この耳で聞き取った以上、それは事実。

 確かに言ったのだ『私にキスをしてほしい』と。


 自然とミカサちゃんの唇に視線が移る。

 鮮やかなピンク色をしたやわらかそうな唇がこちらを向いている。

 要はここに僕の唇を密着させろということ。

 まだしてもいないのに顔が真っ赤になり、全身の毛穴から汗が吹き出る。


「ほんとうに……いいんですか」

「い、いいに決まっているだろう。だって、私たちは、ふ、夫婦……なんだか……ら」


 たしかに問題はない。

 全くと言っていいほどない。

 誰からもとがめられる筋合いはない。

 ただ、あんな紙切れ一枚でこんな美少女と、ましてや生徒会長と。

 キスをしてもいいのだろうか。


 ……。


 いや、いいのだろう。

 この行為をミカサちゃんにできるのは今、地球上で僕一人だけなのだから。

「どうしても、ですか……」

「ぬ、いやか……」

 僕はあわてて首を横に振る。

「め、滅相もないです。ミカサちゃんからキスをおねだりされるなんて、僕としては願ったり叶ったりですけど……」

「そ、そうか……恥ずかしいからあまりそういうこと言うな……」

 そしてなんとなく気まずい雰囲気が部屋に流れる。


「ミカサちゃん、これどのタイミングでやれば……」

「そ、そんなの私が知るかっ。男なら勇気を出して早くやってくれ、私も恥ずかしいのだぞ」

 そう言ったミカサちゃんの顔はこれ以上ないほどに紅く染まっていた。

 頬が紅潮し、少しそっぽを向いているその姿はこの世のものとは思えないほどに可愛く、愛おしかった。


 『男なら勇気を出して』か。


 頭の中でミカサちゃんの言葉を反芻する。

 早いとこやってしまわねば。

 ミカサちゃんも勇気を出してこの想いを僕に明かしてくれたのだ。

 僕も男を見せなくては。

 結婚してまだ三日しか経っていない。なのになんだろう。


 もう何年も一緒にいるようなこの幸福感は。


 どんな困難も乗り越えられるようなこの安心感は。


 責任感が強く、なんでも一人でやろうとするところも。


 本当は寂しがりやなところも。


 意外と正直なところも。


 いっしょにいると幸せを感じるところも。


 実は甘えんぼな一面があるところも。


 全部好きだ。


 この人と結婚して本当に良かった。


「早くしてくれないかユメく……きゃっ」

「すみません、ミカサちゃん。言葉より先に体が出てしまって」

「何をするんだユメ君。急に私を押し倒して」

「すみません。我慢できなかったんです。ケガをしているのは分かっているんですが、そんなこと考える前に体が動いてしまいました。これも、ミカサちゃんが可愛すぎるのがいけないんですよ」

 ミカサちゃんが顔を隠す。

「何してるんですかミカサちゃん。これじゃ顔が見えないじゃないですか」

 そう僕が言うとしぶしぶ手を離した。

 だが、まだ目をそらしている。

左手でミカサちゃんの頬をゆっくりと撫で、こちらを向くよう促す。

「ほら、こっちを向いてください。キスをしてと言ったのはミカサちゃんの方ですよ」

「ずるいじゃないかユメ君。こんなの照れるに決まってるだろう」

「仕方ないですよ。ミカサちゃんが可愛いんですから」


「…………」

 ミカサちゃんが黙った。

 これはもうOKというサインなのか。

 僕はゆっくりと目をつむる。

 それと同時にミカサちゃんも目をつむるのがうっすらと分かった。

 もともと近かった顔同士の距離をさらに詰めていく。


「っ~~」

 そしてついにそのとき。

 とてもやわらかく、弾力のある唇が落ち着く匂いとともに、僕の唇に押し当てられた。

 これが僕のお嫁さんの唇か。

 それ以外考えることができなかった。

 緊張と恥ずかしさと焦りで。

 夫婦初めてのキスとはなんとも初々しいものだ。

 二人とも初めてだから何も分からない。

 しかし、今この瞬間が幸せだということだけは、確かだった。


 そしてそのあと、何回かキスをして、二人とも眠りについた。

 正しくは『ベッドに入ったが、ぶり返して眠れなかった』の方が正しいが。


 七月某日、日曜日。


 ピピピピ、ピピピピ


 枕元で目覚まし時計が鳴り響く。

 結局一睡もできないまま夜を明かしてしまった。

 目をつむるとあの時の感触が鮮明に思い出されてしまう。

 それほどにすごい体験だったのだろう。

 朝ごはんの時、どんな顔でミカサちゃんを見ればいいのだろうか。

 こんな悩みを持てること自体幸せなのだろうな。

 そんなことを思いながらベッドから体を起こす。


 今日はミカサちゃんを病院に連れて行く日。

 果たして本当に行けるのだうか。

 やはりいい方法は思いつかない。

「なんとかおんぶで行けるか……」

 ここから病院までは徒歩3分という近さ。

 夜中でもたまに救急車のサイレンが聞こえてくるほどだ。

 まあ、少し不気味ではあるが。

 そんな心配を胸に抱きながら着替えを済ませ、朝ごはんを作るため一回へ降りて行った。


 朝ごはんを作り終わり、お盆に必要なものを乗せる。

 今から昨夜初めてキスをした人と対面するのか。そう思うと自然と体が熱くなってくる。

 お互いファーストキス。

 緊張するはずだ。

 うまくできていただろうか。


 そんな端から見るとかなり恥ずかしい不安を胸に浮かべながらふと時計を見るとまだ8時。

 病院の一般診察が始まるのが9時のため、まだまだ時間はある。

 もちろんミカサちゃんの部屋で僕も朝ごはんを食べるのだが、話す内容があるだろうか。

 そもそもまともに顔を見れるだろうか。


 できないのだろうな。


 僕の予想ではミカサちゃんは布団にくるまり、僕にどっか行くよう言うと思う。

 そのときは布団をぎ取ってでもいっしょに食べてやろう。

 だって、ミカサちゃんのおいしそうに食べる顔と恥ずかしそうに照れながら食べる顔が見たいから。

 その可愛い顔を一秒でも長く眺めていたいから。

 こんなわがままを胸に、お盆を持ち、二階への階段を上った。



 コンコン


「失礼します」

 そう断りを入れ、ミカサちゃんの部屋に入る。

 相変わらずのいい匂い。

 ドアを閉め、数歩進んだところで照明をつけ、こう言う。

「ミカサちゃん、ごはん持ってきましたよ」

 案の定、よほど恥ずかしいのか自分の布団にくるまり、僕の顔を見ないようにしていた。

 その姿もとてもかわいい。

「ユメ君、私は今とても恥ずかしい。だから一人で食べる。今日ばかりはユメ君はリビングで食べてくれないか……」

 予想していた通りの反応。

 ここまで予想通りだと逆に怖い。

 しかし、ここで引くわけにはいかない。

 そう思って僕が言葉を発しようとしたその刹那。


「……でも、やっぱり一緒に食べたい」


 なんだ、やっぱりミカサちゃんも僕と同じなのか。

 そう安堵したのち、またもぶっとんだ要求がミカサちゃんの口から発せられた。


「でも、ユメ君の顔は今は見れない」


 ん?

 ではどうしろと。

 僕と一緒に食べたいけど、僕の顔は見たくない。

 どういうことだ。

「だから、……ユメ君はあっちを向いて食べてくれないか」

 思わず笑いそうになった。

 僕の顔を見て食べるのが恥ずかしいから、僕はあっちを向いて食べろと。

 なんでこんなことまで可愛いのだろう。

「はは、分かりました。じゃあ、ミカサちゃんの分はいつもの机の上に置いておくので食べてください。僕はミカサちゃんの勉強机を使わせてもらいます」

 言葉を発しながらミカサちゃんの分の朝ごはんを机の上に並べていく。

 こんなこともあろうかと、おかずは別々のお皿に盛りつけたのだ。

 流石僕。


 そしてミカサちゃんの机の方向を向き、歩き出す。

 それとほぼ同時、あるいは僕が机の上に視線を落としたくらい。ミカサちゃんが背後で急に起き上がり、言葉を発した。

「見ちゃダメッ!」

 ミカサちゃんの声に少し肩をすくめ、歩みを止めるが、時すでに遅し。

 ミカサちゃんが阻止したかった事態は免れなかった。


 みんなの勉強机にもあるだろうか。机一面分もある大きな分厚い下敷きが。

 その下に世界地図や、キャラクターの載ったシートを敷いている人も少なくないだろう。

 もしかしたら自分の好きな俳優の写真などを机と下敷きの間に挟んでいる人もいるかもしれない。

 しかし、僕のお嫁さんはというと、どうだろう。

 世界地図でもない、アニメキャラの絵でもない。ましてや人気俳優の写真でもない。

 そこにあったのは。


「これって、僕の写真ですか……」


 後ろから湯気が出るほどに熱いものを感じる。

 ミカサちゃんが僕を制止した理由が分かった。

 これを見られたくなかったためなのか。

「き、気にしないでくれっ。別に、これくらい、いいだろうっ」

 まあ、悪い気はしない。

 もっと言うと満更でもない。

 なんてったって、自分のお嫁さんが旦那さんの写真を眺めながら勉強をしてくれているのだぞ。

 うれしくないはずがない。

 それでもミカサちゃんは恥ずかしいようで。

「すまんな、こんなものを見せてしまって。嫌だっただろう? すぐに片付けるよ」

 少し落ち込み気味。

 しかし、嫌なはずがない。

 そこにあるのは俳優とかの写真ではない。僕の写真なのだから。

「嫌なはずないですよ。ミカサちゃんに僕の写真を毎日見てもらっていると思うと、僕はうれしいです」

 自分で言った言葉に恥ずかしくなる。

 でも事実だ。

 心の底からうれしい。


「あ、僕もこれやっていいですか」

 そうミカサちゃんに訊く。

 僕の後ろの方でしばらく考えた後、答えが返ってきた。


「それは恥ずかしいからだめだ」


 やはり自分がされるのは恥ずかしいらしい。

 僕のは平気で飾っているのに。

 まあ、構わないのだが。

「はは、わかりましたよ。そういえば普通に話せてますね」

 そう言い終わると同時に僕が勢いよく振り返る。

 するとそこには、タオルケットを右手でにぎりしめ、胸の前に持ってきているポーズの神々しいお嫁さんが座っていた。

 だめだ、こんなに美しいものを長時間見ていると眩暈がしてくる。

 お嫁さんのパジャマ姿。いいな。

 僕の中に新たな嗜好が生まれた瞬間だった。


「な、急に振り向くな」

 そう言って慌てて顔を隠す。この仕草もなかなか可愛い。

「いいじゃないですか、キスまでしたんですし」

「それを言うなあ~~。恥ずかしいぃ」

 同時に自分で振っておきながら昨夜の出来事をぶり返す。

 いやあ、可愛かったな。

 この一言に尽きる。


「とりあえず朝ごはん食べましょうか。どうしますか? もう僕も一緒にその机で食べますか?」

 しばらく考え込んだのち、答えを出した。

「……いや、今日はそこで食べてくれ。私がもたない」

 やはり恥ずかしいか。

 まあ夫婦初めてのキスの後はこうなるものだろう。


 カーテンの隙間から、もう登り切った夏の日差しが差し込む中、二人、少し遅い朝ごはんを食べ始めた。

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