第7話 ある日お嫁さんに大事件が起きて

 僕が部活から帰ってくると、そこには混浴をせまる、お嫁さんがいた。


「お風呂にする、ごはんにする、それとも、私といっしょにお風呂に入る?」


 言葉の意味が分からず、しばらくの間硬直する。


「それは、その、どういう意味合いで……」


 純粋にそういた。


「そのままだけど…………」


 これはつまり僕のためにお風呂を準備してくれたという解釈であっているだろうか。

 それもミカサちゃん付きで。


 全身から汗が吹き出し、顔が熱くなっていくのが分かる。

 恐らくミカサちゃんから見ると口が半開きで顔を真っ赤にしているすごい形相なのだろう。

 そしてさらに訊く。


「それはどれを選んでもいいんですか……」


 即座に答えが返ってくる。


「も、もちろん、いいに決まっているだろう」


 そう言い、ミカサちゃんの顔はみるみる赤く染まっていった。

 自分の思い上がりでないことを確認するため、もう一度確認する。


「最後のを選んだとしても?」


「ま、まあ選択肢に入っているからな」


 そこで確信した。


 これはお嫁さん、『誘ってる』と。


 僕は最後を選ぶ決意をし、口を開いた。


「じゃあ、僕は最後の……で……」


「ちゃ、ちゃんと言ってくれ」


 こういうところはしっかりしている。

 まあ、この後の天国のためだ、少しくらいの羞恥は捨てなくては。


「ミカサちゃんと一緒にお風呂でお願いしますっ」


 多少大きめの声でそう言い放つと、ミカサちゃんは少し驚いたようにして僕にこう促した。


「お、おう分かった。じゃあ湯船につかって待っていてくれ、私は風呂の準備をしてくるから。あ、ユメ君の着替えは用意してあるぞ」


「は、はい」


 そう言ってミカサちゃんは多少動揺したように二階へ上がっていった。





ーーーーー





 僕は興奮がおさまらないまま靴をぬぎ、風呂場の方へ一直線に向かう。

 なぜだろう。

 いつも生活している空間のはずなのに今日ばかりはいつも以上に天国に見える。

 本当にこれは現実だろうか。

 普段クールなミカサちゃんからお風呂に誘ってくるなんて。

 なんだか現実味がなさすぎて逆に落ち着いてくる。

 それでもこれは現実なのだ。

 思わず顔がにやける。


 それにしてもどういう経路で僕とお風呂に入るに至ったのだろう。

 まさかお風呂掃除をしていたら僕と入りたいという衝動を抑えられなくて……?

 それはないか。

 しかし、そんな疑問は驚くほどどうでもよかった。

 とにかくミカサちゃんとお風呂に入れる。それだけで幸せ極まりない。

 早くミカサちゃんとお風呂に入りたい。

 そう思うと自然と足が速まり、いつのまにかお風呂に着いていた。


 かばんを置き、服を脱ぎ始める。

 この間にもあらゆる想像が頭の中を駆け巡る。

 まったく、思春期の男子の頭の中とは怖いものだ。

 しかし、手が止まることはない。

 上の練習着を脱ぎ終わったところで、大事件は起きた。


「うわーーっ!……」


 ゴトッ


 風呂場まで聞こえるその叫び声と、何かが階段を転がり落ちる落下音。

 ただごとではない。

 そう悟った。


 今までたるんでいた顔が緊張感を取り戻し冷や汗が全身から吹き出す。

 もしかしたらミカサちゃんが階段から落ちたのではないか。

 そんな悪い予感が働き、心臓の鼓動はさらに速くなる。

 こんなことをしている場合ではない。

 本能がそう感じ取り、上半身半裸で廊下へ飛び出した。


 杞憂きゆうであればいいのだが。

 そう心でつぶやきながら廊下を曲がる。


 目に飛び込んできたのは他でもない。

 ばらまかれた着替えと思しきもの、足首を押さえながらうめくお嫁さんの姿だった。

 不吉な予感が的中し、さらに冷や汗が出る。

 やはりさきほどの落下音はミカサちゃんが階段から落下した音だったのだ。


 しかし、ここで僕があせってはいけない。

 僕はミカサちゃんの旦那さん。

 なんとしてでもミカサちゃんを安心させなくてはならない。


「大丈夫ですかっ!」


 そう言い、ミカサちゃんに駆け寄る。

 着替えの飛び散り具合からしてかなり高い段から落下したらしく、うめき声を上げながら苦しんでいる。

 不幸中の幸いとでもいうべきだろうか、骨が折れている様子はない。

 ただ、足の痛がり方が尋常ではない。

 僕は自分が半裸だということも忘れ、ミカサちゃんの対応に回った。


「ミカサちゃん、大丈夫ですか。無理のない範囲で状況を教えてください。まず、何段目から落ちましたか」


 僕がそう問うと、ミカサちゃんは痛がりながらも口を開き。


「う、えから……五段目……」


 そう答え、再び足首を押さえ始めた。


 階段を見ると、目測で20段近くはあるであろう階段のおよそ四分の三を落下したことになる。

 この高さ、相当だっただろう。

 これで負傷箇所ふしょうかしょが足首だけというのは、ある意味奇跡かもしれない。

 しかし、そんな呑気のんきなことを言っている暇は全くない。


「ミカサちゃん、押さえてるところ見せてみてください」


 そう言ったのち、ゆっくりとミカサちゃんの手をどかし、疾患部しっかんぶを見た。

 案の定、骨が折れている様子は無かったが、あり得ないほどに腫れており、見ることさえはばかられるほどだった。


「氷持ってくるので待っていてください」


 もたもたしている間は一刻もない。

 僕は駆け出し、キッチンへと向かった。

 幸い、キッチンはそこまで遠くはなく、すぐ着くことができた。

 引っ越してきたばかりのこの家に冷却材などはもちろんない。

 ビニール袋をキッチンの後ろの戸棚から引っ張り出し、そのうちの一枚を取り出す。

 それを片付けないまま冷蔵庫へ。

 氷は朝、製氷機に水を入れておいたためか、できているようだ。


 かなり焦っているためか氷をすくう手元が狂う。

 僕が焦ってどうする。

 本当に大変なのはミカサちゃんなのだぞ。

 そう自分に言い聞かせた後、深く一回深呼吸をした。


「すうー、っはあー」


 そしてもう一度製氷室に目を向ける。

 落ち着いたおかげか、先ほどよりも格段に速いスピードで氷を詰めることができた。

 氷を袋いっぱいに詰め、口を縛る。

 血は出ていなかったため消毒液はいらないと判断した。


 急いでミカサちゃんのもとへ戻る。

 先ほどより痛みは引いていそうだったが、それでも痛がっていることに変わりはなかった。

 駆け寄り、氷を当てる。


「ひうっ……」


 ミカサちゃんから聞いたことのない声が漏れ、氷を離した。


「あ、すみません、冷たかったですよね。タオル持ってきます」


 氷をその場に置き、またもダッシュで風呂場に向かった。


 風呂場へ着き、初めて知る事実。

 僕、上半身半裸ではないか。

 さすがにこの格好で手当てをしていたかと思うと、緊急事態でありながらも少し羞恥心が湧いてきた。

 さすがに旦那さんに半裸で手当てをされても、いい気分にはならないだろう。

 そう判断し、急いで服を着る。

 タンスからタオルを取り出し、ミカサちゃんの元へ即座に戻った。

 氷をタオルで包む。


「当てますね、ミカサちゃん」


 そう報告すると痛がりながらも首を縦に動かし、承諾の意を示した。

 ゆっくりと疾患部に氷を当てる。

 これで一応は大丈夫だろう。

 しかし、これほどに痛がっていたのだ。

 しばらく安静にさせて痛みがある程度おさまった後に病院に連れて行かなくては。

 しかし、車も運転できないうえ、自転車もない。

 どうやってミカサちゃんを病院まで運ぼうか。


 そんな心配もあるが、今はとにかくミカサちゃんを安静にできる場所に移さなくてはいけない。

 僕がそんなことを考えていると。


「ユメ君……」


 ミカサちゃんから呼びかけがあった。

 即座に反応する。


「どうしましたか、あ、冷たすぎましたか」


「ちがう……、ありがとう」


 好きなところを挙げろと言われたら結構挙げられると思う。

 でも、こういう自分が一番大変なはずなのに相手への感謝を忘れないところも好きだ。


 しかし、そんなことに思いを馳せている場合ではない。

 一刻も早くミカサちゃんを床の上からベッドの上へ移動させなくては。


「いいんですよ、僕はミカサちゃんを守れる唯一の男性なんですから」


 少し臭いセリフになってしまった。

 それでも笑わないでくれる。微笑みかけてくれる。

 こういう気遣いができるところも好きだ。


「とりあえずベッドに移動させますね」


「よろしく頼む……」





ーーーーー





 大分楽になったようだが、油断は禁物。

 大丈夫。僕は一度ミカサちゃんをお姫様抱っこしたことがあるのだ。

 それの『お嫁さん』の部分が『ケガしたお嫁さん』になって、『リビングまで』の部分が『階段を上った先のミカサちゃんの部屋』に替わっただけ。


 なんら問題は…………。


 ……ありすぎる。


 だいたい持ち上げるだけでもかなり工夫を凝らしたというのに、さらにケガした部位への気遣いをしながら階段を上るなんて、難易度が高すぎる。

 しかし、ミカサちゃんは軽いのだ。

 そう、羽のように。

 僕が力不足だというだけ。

 ここで男を発揮しなくてどうする銀杏ユメ。

 お嫁さんをベッドまで連れて行く、絶対に成功して見せる。


「ミカサちゃん、失礼します」


 前の時と同様、まずは左腕をミカサちゃんの膝の下に回す。

 そして右手を背中に添え、さらに左手の指先をうまく使い、氷嚢ひょうのうを握る。

 そして階段と対面した。


「ミカサちゃん、今から階段を上がるのでしっかり僕を握っていてください、大丈夫です。絶対に落とさないと約束しますから」


 そう言うとミカサちゃんは僕の背中に手を回し、服の後ろをぎゅっと握った。

 よかった、あのとき服を着ていて。

 そう頭の片隅で思いながら再び少し強くミカサちゃんを抱きしめ、階段の一段目へ足を掛けた。


 今こそ男を見せる時だ。銀杏ユメ!


 そう自分に言い聞かせながら。

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