第2話  ある日夫婦で愛の巣に帰って

 そこからは速かった。

 先輩がどこからともなくペンを取り出し僕に差し出す。

 よほどに緊張し、不安だったのかうっすらと涙を浮かべて、無邪気に笑っていた。

 その笑顔より価値のあるものはこの世にないだろう。そう思えた。


 『夫になる人』の欄に自分の名前『銀杏いちょうユメ』とだけ書いて、ミカサ先輩に渡す。


「ありがとう。これは私があとでお父様に渡しておくよ」


 これは現実だろうか。

 頭の中で何度も自問自答する。


「銀杏ミカサ、銀杏ミカサ、うん、だいぶ慣れてきたぞ、私の新しい名前、銀杏ミカサ」


 早速自分の新たな姓名を反芻している。

 何度頬をつねっても痛みを感じる。目の前のお嫁さんの笑顔に幸せを感じる。

 現実意外の何物でもないだろう。


「ミカサ先輩の夫として不甲斐ない点も多くあるかと思いますが、よろしくお願いします」


 僕は深々と頭を下げた。


「ん、よろしく。じゃあ早速私たちの家へ行こうか、いや、帰ろうかの方が正しいかな。今日は部活ないのだろう?」


「へ?」


 思わず声が出てしまった。

 今確かにミカサ先輩は家に帰ろうと言ったはずだ。

 しかも『私たちの』と。


 もしかして今日から一緒に住むのだろうか。


「何をしてるんだ? 早く帰るぞ。……あ、そういえば説明してなかったな、今日からこっちで用意した家に一緒に住むことになるから。安心していい。何もかもこちらでそろえてある」


 もう流れに身を任せた方がよいのだろうな。

 いつの間にかミカサ先輩は立ちあがって生徒会室のドアノブに手を掛けている。

 『結婚初日の晩御飯は何にするか』などとつぶやきながら。


 それよりか僕は結婚初夜はどうなるのかが気になるのだが。


 まあ、そんなことはどうでもよい。

 こんなにかわいい人をお嫁さんにもらえたのだから。


「じゃあ、一応親に連絡だけ入れますね」


「分かった、じゃあ私はそのうちに外で待ってるお父様に婚姻届けを出してくるからな、生徒玄関待ち合わせでいいか」


「はい」


 そう言って頭の中を整理するついでに親に少し長めの連絡を入れ、僕は玄関へと向かった。

 親はあらかじめ承知していたらしく。僕があそこでNOと答えても同じ結果になっていたらしい。


「お待たせしました」


 少し小走り気味に玄関へ到着し、ミカサ先輩にお詫びの言葉を一つ入れる。

 かばんを持って西日を受けるミカサ先輩はどこか愛らしく、どこか安心感があった。

 グラウンドの方向からはまだ部活動生の声が細く聞こえ、同時に砂ぼこりの匂いが鼻につく。


「家はすぐそこだ。今までバス通だったが、明日からは徒歩で来れるぞ。『二人で』な」


 二人でというワードに圧倒されながらもミカサ先輩と肩を並べるようにして横へ行き、二人、歩き始めた。


 学校を出て数分、立派な一軒家に着いた。

 まさかこんなところに家があるとは。


「入っていいぞ」


 そう促され、夕日でオレンジ色に染められた家のドアノブに手を掛ける。

 これから人生を共にする人と過ごす場所となる一軒家。

 そう思うと緊張が止まらない。

 少し汗ばんだ右手でドアノブを回し、引いた。


「おお」


 感嘆かんたん嗚咽おえつを漏らすほどに真っ白な内装。外見からしてもかなり広いらしく、玄関のすぐ横に階段、その少し奥に右に長い廊下が続いている。

 正面には恐らくリビングであろう空間が見受けられた。

 僕は家の内装に感激しながら玄関に足を踏み入れた。


 後ろからミカサ先輩も入ってきたのだろう。

 ドアが閉まる音が聞こえる。


「きれいですね、ミカサ先輩」


 そう言い終わった途端、背中に人の体温を感じ、僕は少し肩をすくめた。

 徐々にお腹の方へと小さな手が回される。

 後ろにいる僕のお嫁さんが背中に顔をうずめた。


「動かないで……」


 ミカサ先輩が、抱き着いてきたのだ。


「ど、どうしたんですか」


 動揺し、あまりうまく話せない。

 どういう状況なのだろうか。


「私、前からずっとユメ君のことが気になってたんだ、ずっと好きで、でも学年が違うから私のことなんかそういう目で見てくれないんだろうなって思ってて。最近不安なこともあって精神があやふやで。でも今日この話をしたときに即答してくれて嬉しかった」


 さきほどまで当たり厳しかった生徒会長が、急に甘え始めてきたことに驚きを隠せない。

 呼び方もユメの呼び捨てからユメくんになっているし。


「私、学校だと生徒会長という立場だから誰かに甘えることができないんだ、だから自然と力が入ってきつい口調になってしまうんだけど、家だと安心するから元の口調に戻るんだ」


 それでもなぜ抱き着いているのだろう。

 その疑問はすぐに解決された。


「私は、実はもともと甘えたい性格なんだ。だから、家ではいっぱい甘えさせてくれ……」


 僕のお嫁さん、なんてかわいいのだろう。


「わかりました。今日から僕はミカサ先輩の旦那さんです。どんどん甘えてください」


「ありがとうっ」


 そう言って少し無邪気に笑った。


 こんなに苦労していたのか。

 ここで初めて知る事実。お嫁さんが甘えんぼさんだったこと。

 あの冬の日も、誰も頼れる人がいなくて泣いていたのだろう。

 でも、今日からは僕がいる。

 ミカサ先輩に頼られるような人物にならなくては。

 そう僕は決心した。


「ひとまずミカサ先輩、リビングに行きましょうか」


「分かった」


 そう言って回していた手をほどく。

 二人座り込み、靴をぬいだ。

 立ち上がり、前を見ると、座ったまま両手を広げたミカサ先輩が僕を見つめている。


「甘えたいから、リビングまで抱っこしていってほしい」


 との要求。

 なんだこのかわいいの権化は。


 ほんの数時間前、廊下で立ち止まっていた僕を厳しく注意していたなんて微塵も思えないほどの可愛さ。

 もちろん、この要求を断る気はさらさらない。しかし、一つ心配なことがある。

 果たしてこの僕にミカサ先輩を持つほどの力があるだろうか。


 決してミカサ先輩が重いと言っているわけではない。

 単純に僕の腕力が乏しいための心配なのだ。

 ここで断ってしまえばもちろんミカサ先輩を悲しませることになる。

 かといって持ち上げられなくともミカサ先輩は心に傷を負うことになる。

 それを回避するためには、ミカサ先輩をなんとしてでも持ち上げなければならない。


「分かりました……」


 僕はミカサ先輩の膝の下に手を入れた。


「ふぇ?」


 普通の抱っこを想像していたのか、世界一かわいい驚きの声を漏らす。

 そのまま背中へ右手を回し、左腕に力を込めた。

 てこの原理を応用した抱っこの仕方。

 俗に言う『お姫様抱っこ』をし、僕はリビングへと歩を進めた。


 小さな背中は細く、か弱さを覚えた。

 少し赤らめた顔で視線のやり場にこまっているミカサ先輩。

 ついには両手で顔を隠し始めた。

 それでも耳の付け根まで真っ赤に染まった顔ではいくらそうしようと、恥ずかしがっていることは隠せない。


 内心、僕も心臓が破れそうなくらいに緊張している。

 心臓の音が聞こえていないだろうか、そんな心配が横切るほどに。


「ねえ、私の心臓の音聞こえてないよな」


 ちょうど同じ心配をしていたようだ。

 二人して同じ心配をしていたとは。なんだか夫婦を感じる。

 それにしても、あんな紙切れ一枚で生徒会長をお姫様抱っこしてもいいことになるなんて。

 そもそも、こんなにかわいい人と同じ空間で生活することが許可されてもいいのだろうか。

 何かあったらどうするんだ。

 今まで学校で習ってきた倫理観が意味のない物のように感じる。


 夫婦ってすごいな。


 そんなどうでもいいことを考えながら、リビングのソファーへ、お嫁さんをそっと下ろした。


「着きましたよ」


 そう言うと、ミカサ先輩は少し顔を制服にうずめながら、こう言い返した。


「アリガト……」


 その姿はとてもかわいく、家で制服もいいものだなと思った。


「とりあえず着替えて宿題しましょうか」


 その言葉で立ち上がったミカサ先輩は再び玄関に戻り、かばんを取り、二階にある自室へと戻った。

 まだ少しお嫁さんの背中の感触が残る右手を握りしめ、僕も二階の自室へと上がった。





ーーーーー





「ユメくーん、ちょっと来てもらえないか?」


 自室での宿題が終盤に差し掛かったころ、お嫁さんからお呼びがかかった。

 部屋が隣のため、よく聞こえる。

 デスクライトをつけたまま一旦机を離れ、ミカサ先輩の部屋へ移動する。


 ドアを開けると、そこには私服に着替えたお嫁さんと、脱いだばかりであろう女子用の制服が床に散乱していた。

 もしかして僕のお嫁さんはお片付けができない人なのだろうか。

 普段学校で生徒会長として隙を全く見せない僕のお嫁さん。

 実はちょっと抜けてるところもあったという新しい事実。

 結婚って相手の『知らない』を『知る』ことなのかな、そんなことを考え、すぐさまミカサ先輩の元へ向かった。


「どうしましたか、ミカサ先輩」


 そう問うと、右手で首の後ろをなでるしぐさをしながら少し恥ずかしさを隠すように僕にこう言った。


「一応後輩のユメ君にこんなこと訊くのは野暮かもしれないが、ちょっと宿題で分からないところがあってだな、その……教えてほしいんだが……」


 確かに僕は頭が良い。と自負している。

 しかし、三年生の問題を僕が解けるだろうか。


「一応問題を見せてもらっていいですか」


「これだ……」


 そう言ってミカサ先輩が差し出したのは数学の問題。

 僕の得意分野だ。

 問題の詳細は二次関数の初歩的な問題。

 まあ、解けるだろう。


「ユメ君今、なんでこの程度の問題が解けないんだろうって思っただろ……」


 図星を突かれて少しうろたえる。


「い、いや別にそんなこと思ってないですよ」


 そう慌てて言うとミカサ先輩は頬を少し膨らませ。


「私は勉強ができないんだ、生徒会長といっても頭が良いわけじゃないんだからな」


 と、反論するかのような口調で言った。


「すみません、じゃあ、ここの単元イチから復習していきましょうか、僕二次関数は完璧だと自負しているので」


「おお、それは頼もしい。じゃあ、おねがいしようかな」


 こう、やり取りを行った後、ミカサ先輩の後ろから抱き着くようにして腕を回し、勉強会を初めた。


 その間、お嫁さんの顔が真っ赤だったというのは言うまでもないだろう。





ーーーーー





「ごちそうさまでした」


 初めてのお嫁さんの手料理、なんというか、すごかった。

 料理得意なんだなあ。


 そんな新しい一面を見つけ、お茶をすすっている所で、お嫁さんから話しを切り出された。


「そういえばユメ君、家でくらいは私のこと先輩呼びはやめてくれないか。旦那様から先輩呼びされるというのはどうもむずがゆくてな……」


 突然の提案にお茶をむせそうになる。


 それはつまりミカサ先輩を呼び捨てにしろという要求なのだろうか。


「別に呼び捨てでなくてもいい、なんか、夫婦間だけの呼び方とか決めておきたい……な」


 少し羞恥が混じった声で話されるとこちらも断る術を失う。


 もちろん断る気は鼻からないのだが。


「わ、分かりました」


 前提として、呼び捨てはまずない。

 なにせ生徒会長と後輩だ。別に問題はないのだろうが、なんというか僕に抵抗がある。恐れ多い。

 となれば考えられるのは……。


「決まりました」


「おぅ、早かったな……早速だが呼んでみてくれ……」


 お嫁さんも恥ずかしがっている。しかし言う側の緊張はそれ以上のものだった。


「じゃあ、呼びます。…………」


 お嫁さんの無垢な目を見つめる。

 僕は口を小さく開き、『二人だけ』の呼び方を、期待するお嫁さんを前に放った……。

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