白色の月光
「夢の国の人口制限は、地球人口の半分だって知ってるか?」
いつも通りのセリフで、適当に見つけた人間に話しかける。
「単に地球が昼と夜で常に二分されてるって話なんだが、」
そう続けて、砂漠に座り込んでいるそいつの隣に腰を下ろしたが、
「おーい、聞こえてるか?」
顔を覗き込もうとしたが、そいつは両腕で顔を覆ったまま微かに震えている。
「おーい、大丈夫かお前。」
震える肩に手を置くと、そいつは跳ねるようにして顔を上げた。ようやく見えたそいつの顔は涙で濡れていた。
「泣いてたのか。邪魔して悪かったな。そんじゃオレは向こうに行くから、好きなだけ泣いてな。」
そう言い残して別の人間を探しに行こうと立ち上がった瞬間、そいつの手が伸びてオレの手首を強く掴んだ。痛っ。
脅迫とも懇願ともとれる必死な目でこちらを睨みつけている。しばらく黙って見つめ返していると、その目はこちらに向いたままその潤みを増していった。
砂漠の向こうへと向けた足を半回転させる。
「分かった分かった。ここにいてやるから。」
たまにいるんだよな、こういうやつ。まぁ、どうせ暇だし付き合ってやるか。
やたらと力の強い手を解こうと肩ごと揺するが、また顔を
「どこにも行かねぇって。だからとりあえずこの手、離してくれ。普通に痛いから。」
わざと音を立てて隣に座り込むと、そいつはようやく手の力を緩めた。
「お前、力強いな。ほら、跡になってる。」
軽い口調で自分の手首をそいつの顔の近くに伸ばしたが、そいつは顔を上げず静かに泣き続けるだけだった。
まぁ、今日はそういう日なんだろうな。こいつにとっても、オレにとっても。
出しっぱなしの手首を引っ込めて小さくため息をつく。ふとそよ風がオレたちの間を掠めていった。地平線を眺めながら、なんとはなしに口を開く。
「そういうときあるよな。どうしても泣きたくなるとき。分かるよ。オレもあるし。たまにだけど。」
静かな泣き声は変わらず溢れている。恐る恐る様子を伺おうと首を回しかけたが、寸前でまた地平線に目を戻した。
まぁ、知らないやつの隣で独り言並べるのはいつものことか。口を動かさずに小さく呟いて浅くため息をつく。
いつも通り、砂漠の果てで緩やかにうねる地平線を目で追いかける。いつもより白い月明かりのおかげで、今日は一段とよく見える。見えたところで、ここには砂しかないんだが。
オレが喋るのを諦めると、隣のすすり泣くような小さな声だけが耳にまとわりついた。今夜の月はいやに明るい。
砂漠に落ちた二人の影は、夜空と見分けのつかないほどの黒さで輝いている。
話すこともなくぼーっとしていると、座りっぱなしの尻の痛みが浮き彫りに感じられた。頭の重さに任せて背中を倒す。視界を埋め尽くす夜空の黒に疎らな星々がばらまかれ、そしてそれらを代表するかのように大きな月が白く輝いていた。
月や星の位置からしてここは地球上ではあり得ない。砂文字でそんなようなことを長々と力説していた学者の、好奇心に歪んだ顔を思い出す。あいつと隣り合ったのは、何十日前のことだったか。あのときのオレも蹲って泣いていたような気がする。
なにか興味深いことを砂に書いていたようだったので、オレは泣くのを忘れて、やつの手元を必死に覗き込んでいた。
しかし、途中、専門用語が増えてきた辺りから話に飽きて、学者が夢から覚めるまで適当に空返事を返していたのをよく覚えている。
オレがここに居たのは、いつからだっただろうか。学者に投げかけられた問いには、まだ答えが出せていない。一番古い記憶を思い出そうにも、星空と砂漠のイメージしか湧いてこない。もしかしたら学者がその答えを推察していたのかもしれないが、長々と続いた砂文字はいつの間にか風に流されて消えてしまっていた。
学者の言葉で、今でも思い出すものがある。
「砂漠の果てを目指したことはあるのか?」
その問いはまさに晴天の霹靂というやつだった。この広大な砂漠をおよそ百メートル以上も移動したことのないオレにとって、それは思いもよらぬ選択肢だった。数秒のあいだ唖然としていると、学者は急ぎ指文字を続けた。
「時間はあるんだろう。一度歩いてみるといい。一人が嫌なら私も付いていこうか。」
それまで好奇心に歪んでいた学者の顔には、ほんの少しだけ優しさの色が見えた。
しかし、オレは少しも間を開けずに首を横に振った。
「いや、いいよ。確かに腐るほど時間はあって正直暇だけど、ここら辺で適当な奴を見つけて話をするのが楽なんだ。」
そう言うと、学者は穏やかな顔でため息をつき、今度はゆっくりと指を動かした。
「もしかしたら、アンタをこの砂漠から脱出させられるかと思ったが、本人にその気がないなら私に出来ることはないな。」
少し悲しそうな目でオレを見たので、オレは無言で愛想笑いを返した。学者はなにか伝えたそうに指を曲げ伸ばししていたが、不意に夜空を見上げ、もう一度オレの顔を見るとすっかり肩の力を落としてしまった。
そのあと学者はまた専門用語たっぷりの長話を砂に書き始めたので、そこから先は覚えていない。
今ならあのときの学者の気持ちが分かる気がする。なにか自分に得があるわけでも、相手が望んでいるわけでもない。だけど、なにかしてやりたい。目の前で困ってる奴の力になってやりたい。そんな気持ちがどうしようもなく心を満たすのだ。
隣に目をやる。ずいぶんと時間が経ったはずなのに、そいつはまだ泣いていた。三十センチはあった距離を十センチほどに縮め、なんとなくそいつの肩に手を置いた。瞬間、しゃくるような声と共にビクッと身体を縮こまらせたが、ゆっくりと力を抜いていくのが分かった。
「悪いな。お前は泣いていたいのかもしれないけどさ。オレはお前の力になってやりたいんだ。なんとなくな。」
そいつに言うというよりは、慣れない行動の言い訳をオレ自身にしたように思えた。
しばらく隣で座っていると、泣き声が少しずつ小さくなり、やがて
なにか反応があるかと思ったが、そいつは顔を伏せたまま身じろぎもしない。
久しぶりの静寂に堪えかねて口が開く。
「せっかくここに来たんならさ、上見てみろよ。綺麗だぜ。正直見飽きてるけど、それでもわりと気に入ってんだ、この星空。」
首を上げると、散々見てきた星空が変わらず広がっていた。その中央で月が白く輝いている。今日の月は特に明るい。
隣のそいつが空を見上げたかは分からない。あえて隣は見なかった。それでも、この景色を見ていてほしいと、自然とそう思えた。
月が一段と明るく輝いた気がした。気のせいかと思ってそのまま首を上げていると、段々と月が明るく、そして大きくなっていった。
隣を振り返ろうとするが、身体が動かない。声も出ない。驚きと焦りのうちに常識はずれに大きくなり続ける月が真っ黒な夜空を埋め尽くした。視界は白一色に染められた。どうすることもできない焦燥感のなか、心の底だけは酷く落ち着いていた。
重たい瞼をゆっくり開けると、目の前に一面の白が広がった。辺りを見回そうとするが、金縛りにあったように身体が動かない。遠くから車輪を転がすような音や細かい足音がいくつも聞こえてくる。霞がかった頭で現状を把握しようと努めるが、ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、どうにも分からない。しばらく動けずに目の前の白を眺めていると、視界の端にこれまた白い服の誰かが入り込んできた。ここがどこか尋ねようと口を動かしたが、喉が掠れて呼気が擦れるような音が頼りなく溢れるのみだった。
突然、白い服の誰かが騒がしく喚きだした。身体も動かせないのでしばらく聞き流していると、新たに現れた数人がオレの顔を覗き込んできた。
「ジャゾネさん、わかりますか?」
ジャゾネ。その名前には聞き覚えがあったが、記憶の片隅に放置された名前で誰のことかは分からない。
ほんの数ミリ、やっと動かせる範囲で首を横に振ると、目の前のやつらがまた騒がしくなった。
ジャゾネ。数年前に睡眠薬を大量に飲み病院に運び込まれた。傍らに遺書らしきものが見つかったので、自殺未遂ということになっている。睡眠薬は全部吐き出させたが、意識を失う直前に転倒したとかで頭を強打。今日までずっと寝たきりだったらしい。
目が覚めてから数日後に医者から聞いた説明だ。そして、このジャゾネというのがオレの名前らしい。最初聞いたときは誰かと思ったが、会う人間全員に何回も呼ばれてると、なんだかそんな気がしてきた。
やっと身体も動かせるようになったある日、手持ち無沙汰でベッド脇の小さな机を調べてみた。引き出しに押し込められたボロボロの財布には、ジャゾネという名前とオレの顔写真が載っているIDが挟まっていた。どうやら本当らしい。
そうなってくると、自殺未遂の睡眠薬騒動も本当ということになる。まだ実感はないが、遠い昔にそんなことをしたような気もする。
退屈な病室では特にすることも見つからないので、病院の廊下を歩き回りながら当時のことを思い出そうと試みた。しかし、思い出そうとすればするほど、件の騒動よりももっと強く、身近に思い出されることがあった。
星と月の綺麗な砂漠で、いろんな人間に話しかける夢だ。
あれは夢だったのか?夢にしては奇妙なほどの鮮明さで、あの景色が何度も脳裏に甦る。
夜空を埋め尽くす星々と真っ白に輝く月。その光を受けて金色に輝く砂の大地。時折オレの黒髪を優しく揺らすそよ風。
そして、思い出される名前。
「ウネメ…」
そう呟いた瞬間、自然と口角が上がった気がした。白い壁に嵌め込まれたガラス窓がキラリと光る。狭い廊下で一人笑みを浮かべるオレを、窓から差し込んだ暖かい陽光が照らした。
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