黒色の艶髪

「夢の国の人口制限は、地球人口の半分だって知ってるか?」

突如、若い男の声が聞こえてきた。声のする方に首を回すと、年の頃二十程の青年が長い黒髪をそよ風になびかせていた。恐らくワタシに話しかけているのだろうが、彼は遠くの地平線に体ごと目を向けたまま、こちらを見ようとさえしない。

いつのまにか座っていた砂丘の砂粒を片手に掬い、その感触を手のひらで確かめる。辺りをグルッと見回してみるが、どの方角を見ても砂漠特有の凹凸おうとつがあるだけで、視界の果てには地平線に隔てられた星空しかない。

仕方ないので、飄々とした様子でワタシの隣に座る長髪の青年を細めた目で眺めた。私の様子を見て楽しんでいるのか、ニヤッと口角を上げた彼は、おどけた口調でペラペラと戯れ言を並べ始めた。

何を言っているのか半分も理解できなかったが、どうやら彼は夢の国の住人らしく、さらには自分の名前が分からないという。


「じゃあ、何て呼べばいいんだ」

彼の止まらない戯れ言に重ねるようにして当然の疑問を投げかけると、 それまで留まる様子のなかった戯れ言がパタリと止んだ。

ポカンと口を開けたままの彼は、幽霊でも見たような驚いた顔でワタシを見つめている。彼は何も言わない。

「なにかあだ名とかないのか」

急に訪れた沈黙が気まずくて質問を重ねるが、彼は凍ってしまったかのように少しも動かない。と思った矢先に、彼の口がカタカタと震えながら動いた。

「な、なんで、喋れるんだ?」

「なんでもなにも、喋れるから喋ったんだ。ところで、アンタ仲間内ではなんて呼ばれてるんだ」

「いやいや、普通の人間は喋れないんだよ。なんなんだお前」

「じゃあ、ワタシは普通じゃないんだろう。そんなことより、本当に名前がないんならワタシがつけてやろうか」

なにやら可笑しなことを気にする奴だが、名前の呼びようがないと話がしづらい。

これは父親から教わったことのなかで今でも唯一覚えていることだが、「初対面の人間にはまず初めにそいつの呼び名を聞け」と物心ついた頃から言い聞かされていた。正直なところワタシ自身、父親のことは好きではないのだが、この教えだけはいつのまにかワタシの癖として備わっていて、今の仕事にも非常に役立っている。心底遺憾なことではあるが。


「は?名前?そんなのはどうでもいいよ。それよりお前のことだ。ここに来た人間で喋れたのはお前だけなんだ。」

「そうだな、それじゃウネメなんてのはどうだ。ワタシの国で初めて理髪をやった人の名前だったはずだ。ワタシの故郷にはその人を祀ってる神社があってな。地域ぐるみで髪を大切に扱ってきたんだ。アンタの黒髪はワタシの国でもなかなか見ない逸品だぞ。」

身振り手振りを交えて力説してやると、それまで前のめりだった彼はようやく肩の力を抜いた。彼の両拳が砂の上にドサッと落ちる。

「あー、じゃあ、それでいいよ、もう。なんだっけ?ネーメ?」

「ウネメだ。ウネメ。いい響きだろ。そういや、アンタはどこの国の生まれなんだ。目鼻立ちもハッキリしてるし、見たところ地中海とかそこらじゃないか。」

「ほんとに人の話を聞かないやつだな、お前は。」

口をへの字に曲げた彼は、諦めたように大きなため息をついてこちらに向き直った。

「オレはここの生まれだよ。なんて国かは知らないが、夢の中、それも夢の国の外側だってことは知ってる。」

「夢の国ねぇ。アンタ…ウネメはその内側には行ったことがあるのかい。」

「いや、ずっと外側だよ。たまに夢の国からあぶれてくる現実の人間を見つけちゃ話しかけたりして暇を潰してる。もっとも、みんな喋れないからオレの独り言を聞かせるだけだがな。」

「ワタシを除いて、だろ。」

「ああ、そうだよ。他人と会話するのがこんなに疲れることだとは知らなかったよ。」

あからさまに不機嫌な顔をして、彼はまた地平線を眺め始めた。

「ハハハッ。良かったじゃないか。会話は疲れる。現実の世界じゃ常識だ。一つ賢くなったな。」

砂漠の果てに向かって唇を尖らせる彼の隣でひとしきり笑った後、ワタシも彼と同じように夜空の果てに目を向けた。

真っ暗な砂漠にしばらくぶりの沈黙が訪れた。今度のそれには不思議と気まずさがない。


体感で五分程だろうか。二人して特に面白みもない地平線をボーっと眺めていると、唐突に彼が口を開いた。

「お前はなんて言うんだ?名前。」

そういえば、彼を質問攻めにするのに一生懸命で、自分は名乗っていなかった。チラと彼の方を盗み見るが、変わらず遠くを見ていたのでワタシも地平線に目を戻したまま言い放った。

上林結仁かんばやし ゆうじだ。」

「カバーシユジー? 」

「言葉は通じるのに国特有の発音は難しいのか。不思議なもんだ。そうだな、ユウジでいいよ。外国じゃファーストネームで呼ぶんだろ。」

「ユージー?」

「ユ ウ ジ」

「ユージ?」

「ああ、そうだ。ちょっと違うが、そう変わらんだろ。」

「で、何て言ったっけ?」

「ん。カンバヤシユウジだよ。」

「ああ、違う違う。オレの名前だよ。」

「人の話を聞かないとか言っときながら、アンタも大概じゃないか。ウネメだ。」

笑い混じりに答えてやると、隣からは予想外に沈黙が返ってきた。

あんまり見事な髪だからといって髪由来の人名は安直すぎたか。あるいは語感が気に入らないか。他人に名付けるなんて大それた真似が、今になって少し恥ずかしくなってきた。

悪い、さっきの名前は忘れてくれ。そう言おうとした瞬間、彼が口を開いた。

「ウネメ……」

その小さな声から妙に繊細なものを感じ取ったワタシは、彼の横顔をソッと盗み見た。依然として目線を地平線の先に保つ彼だったが、その口角は少し上がっているように見えた。それを見てワタシも少し口角を上げて、また彼と同じように地平線の先に目線を戻した。

互いの顔などろくに見ずに、それぞれが遠くの地平線に顔を向けたまま他愛ない言葉を交わしてきた。時間にしてほんの十分程だろうか。しかし、この十分が酷く愛おしいものに思えて仕方ないのは、これが目覚めれば消えてなくなる夢だからだろうか。


柔らかい風がワタシの頬を撫でた。

思えば、こうやって何もせずにただ景色を眺めるような時間は、今の仕事に就いてからは取れていなかったような気がする。

何年ぶりだろうか。収入や社会的地位と引き換えに失った、白絹のように純朴な時間の流れ。

そよ風の擦れる音と足元で静かに踊る砂粒だけが、この砂漠の時間が止まっていないことを知らせる。永遠にも感じる刹那の連続が、ワタシとウネメの二人を包み込んでいた。


心地よい沈黙のなか、夜空と砂漠を二分する地平線を眺めていると、少しずつ意識が遠ざかっていくのに気付いた。気を抜くと首がカクンと舟を漕ぐ。

朧げな視界を無理やり動かして、隣に座るウネメを見る。

いつのまにか彼もワタシの方を見ていた。朝霧のようにぼやける瞼の隙間から、彼の少し悲しそうな顔が見えた。自然と顔が緩む。何か声をかけようとしたが口が回らない。

そんなワタシの状況を察してか、彼は酷く優しい口調でこう言った。

「じゃあな、ユージ。」

ああ、またな。ウネメ。

音にならない言葉を彼に投げかけ、ワタシは砂漠に満ちるそよ風に流されていった。



窓から流れてきた冷たい風で目が覚めた。

どうやら、仕事中に居眠りをしていたらしい。枕になっていた左手の甲が赤くなっている。額も真っ赤になっていることだろう。まだ日の高い昼過ぎに仕事机に着いたはずが、窓からは既にオレンジ色の日差しが差し込んでいた。

まだ重たい目を覚ますために、椅子に座ったまま伸びをして深めに酸素を吸い込む。ようやくハッキリしてきた視界に目の前のモニターが入り込んだ。

しまった。立ち上がりっぱなしだったテキストエディターの綺麗な白さに背筋が凍る。モニターの枠に貼られた数十枚の付箋をグルッと見回し、赤いマーカーで二重の下線が引かれたものを見つける。赤の下線一本は〆切直前、二本で”本当の”〆切直前だ。そこには明日の日付と三桁の数字「6:00」、その下に「MTR 3,000×3」の文字が殴り書きされている。MTR出版社は売れない頃から世話になっているところだ。加えて、いまの担当編集には依頼字数無視だったり〆切五分前入稿だったりで、いつも無理をさせている。つまり。

今日は、徹夜か。

寝ぼけた頭では何も思い浮かばない。ひとまず夜を乗り切るための食料と目覚ましのコーヒーを調達しようと思いたち、じっとりと体温の残る椅子から立ち上がった。寝汗で湿ったTシャツを脱ぎ捨てて、ほのかに柔軟剤の香りがするシャツに着替えた瞬間、なぜか星空に照らされる砂漠の風景が脳裏に浮かんだ。

外国に出たことはおろか国内の砂丘にすら行った覚えがないのに、次々と思い出される砂漠の質感になぜか温かい懐かしさを感じる。

なんとなしに指を擦りあわせると、親指と人差し指の間にジャリッという記憶が確かに感じられた。

ふと我に返ったワタシは、手に取りかけた財布をベッドに放り、急いでモニターの前に戻った。キーボードに手を伸ばすと自然に指が動き始めた。

真っ白なモニターの上部に一行だけ打ち込まれる。


「夢の国の人口制限は、地球人口の半分だって知ってるか?」


聞いたことのない懐かしいセリフに、胸を締め付けられるような感覚を覚えつつも、なぜか自然と口角が上がった。

窓辺から吹き込んだ冷たい風にふと振り向くと、高層ビルにトリミングされたオレンジ色の空の端で、艶やかな黒が哀しそうになびいていた。

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