5-6

「フィル様……?」


「俺とドウェインに調査を兼ねた討伐遠征の命令が下った。別れる前、任務から戻ったらどこか景色のいい場所に行こうと約束したな?」


「なに……言って……」


 セレストは一度目の世界の終焉を彼に詳しく話していなかった。敵がジョザイアだという説明はもちろんしているが、フィルがあの日なにをしていたかは言っていないし、二人の個人的な関係も詳しく説明していない。ただ師弟関係だと言ってあっただけだ。


「君は俺を不幸にすると言うが、俺は一度目の世界よりも不幸になることはない。人生で、あの日より後悔した日など一日だってないのだから」


 フィルの表情は見えない。けれど、声色や態度で真剣さが伝わってくる。

 彼も巻き戻る前の世界を知っていたのだ。


「覚えていたのですか?」


「あぁ、だから断言できる。俺は絶対に、今と、これから先にある未来のほうが幸せだ」


「フィル様……っ、でも……」


 セレストはいずれ王家と敵対することになる。それは秘密を抱えるフィルの望まない事態のはずだった。


「この先、一度目の世界で笑っていたはずの誰かの未来を閉ざしてしまう可能性はもちろんある。……それが罪だというのなら、半分は俺が背負う」


「私はフィル様に傷ついてほしくない。それだけは耐えられなくて……」


 時を戻す力を持っていたのはスピカだが、彼がそんな無茶な力を使ったのはすべてセレストのためだ。同じように記憶があるからといっても、セレストとフィルでは立場が違うはずだった。


 セレストは当事者であり、彼は巻き込まれただけなのだ。


「すまないが、君がどんなに望んでも俺は一度目と似た未来を選ぶことはできないんだ」


 彼の言葉からは揺るぎない意志が感じられた。

 見捨ててしまったほうが楽だというのに。


「……きっと間違っています」


 あの世界で幸せになるはずだった人たちの平穏を壊してはならないというセレストの主張のほうが正しいに決まっている。


「なら俺と闘おうか? 俺は自分のしたいようにする。俺の中にある最初の世界で君が星獣使いになってからの七年の記憶。そしてこの世界で俺を訪ねてきてからの四年半の記憶……。その両方が君の手を離すなと言っている。もう手遅れだ」


「でも、私は臆病で……怖くて……」


「俺たちは強い。次はもっとうまくやれる。……そうだろう?」


 フィルは星獣たちに同意を求めた。


「ワン!」


「ガゥゥゥ」


「ピィィ」


「……ほら。残念だが君の味方はどこにもいないらしいぞ」


 弱音を吐いて自暴自棄になるセレストを彼らは認めてくれないという。

 フィルも星獣たちも、セレストがあきらめることを許さない。

 力強い言葉をもらっても、すぐに自分の考えが変わるわけではないけれど、セレストは、彼らを傷つけたくないのと同じくらいに、彼らとの幸せな未来を夢見る気持ちを持っていた。


 あの世界の破滅を超えてもずっと、できれば誰も犠牲にせずに――セレストがそう望めば彼らは必死に叶えようとしてしまうとわかっていた。

 けれど、それ以外の道を進もうとするとフィルや星獣たちが邪魔をするからどうにもならない。


 セレストの負けだった。


「フィル様、皆……。お願いです! 私、もっと頑張るから……強くなるから……。フィル様もスピカもレグルスも……スーもずっと一緒にいて。私が十八歳になってもずっと……」


 だからセレストは敗北を認めた。

 フィルはなにも言わなかったが、腕に込める力を強めたことで答えをくれた。

 彼と一緒にいるだけで、セレストは怖いくらいに幸せだった。


(フィル様……私のことを覚えていてくれたんだ……。覚えていて……あれ……?)


 しばらく彼のぬくもりを感じていたセレストはふと我に返った。

 そして慌てて彼の胸を強く押し、顔がはっきり見える位置まで距離を取る。


「……ヘーゼルダイン将軍……?」


 彼はフィル・エインズワースなのだろうか。それともフィル・ヘーゼルダインなのだろうか。

 セレストは突然、彼が誰なのか自信がなくなった。

 そして自分が彼にとってどんな存在であるのか、先ほどまでわかっていたつもりだったのが嘘のようにすべてが根底から崩れていく。

 かつて、セレストとフィルは師弟関係にあって、十八歳の頃は独り立ちをしたあとだった。

 尊敬する人であったし、フィルもセレストをいつも気にかけてくれたが、あくまで他人である。


「抓るぞ」


 宣言と同時にフィルが頬を抓ってきた。

 ものすごく怒っているのはあきらかだった。


もふもうしゅねってはふつねってます


「今のは君が悪い」


 どうやら彼は「ヘーゼルダイン将軍」ではないらしい。

 一度目の世界の記憶があっても、「フィル様」なのだろう。

 けれど、他人であるはずのヘーゼルダイン将軍に甘えていたという事実が突きつけられているようで、セレストは平静ではいられなかった。

 顔は真っ赤になって心臓はバクバクと音を立てる。今まで一切彼への好意を隠すことすらせずにいたこの四年半の言動がとにかく恥ずかしかった。


「……フィル様は記憶があったから私を助けてくれたんですか? 最初に言ってくださればよかったのに!」


 そのわりには、最初はものすごく嫌そうな顔をしていたし、なんだか違和感があった。


「記憶が戻ったのはスピカと再会したときだ。最初は同情となんとなく放っておいたらまずいという直感だな。記憶が戻ってから、それを伝えなかったのは……」


「伝えなかったのは?」


「これから何年も同居するのに差し障りがあるからだ!」


 心だけ歳を重ねることができるのかどうか、セレストにはわからない。

 けれどフィルがセレストを子供扱いしているからという言い訳で、セレストはここ数年彼に随分と甘えている。

 昔の関係に戻ることはできないくらい、二人の距離は近くなっている。

 家族であることは間違いはないけれど、父なのか兄なのか、それとも夫なのかよくわからない関係だ。

 それがセレストの心が成人女性だという認識を共有するととんでもなく気まずいものになってしまう。

 フィルの言うことはいつも正しかった。


「そ……そうですね……」


 つまり今、これから何年も同居するのに差し障りがある関係に進んでしまったという状況に陥っている。

 この話を深く考えてはいけない気がしたセレストは、なんとか別の話題にすり替えようとした。


「それ、れ……それにしても、どうしてフィル様にだけ記憶が戻ったのでしょうか?」


 時間を巻き戻したのは隠されたスピカの力だ。主人であるセレストだけが記憶を持っているのであればまだわかりやすい。他人であるはずのフィルが一度目の世界を覚えている理由がセレストにはわからなかった。


「予測でしかないが、条件の一つはスピカの星神力に触れたことだ。だが、それだと多くの軍人が触れている」


 スピカの星神力に触れたというだけで一度目の記憶が目覚めるのなら、セレストと同じ部隊に所属する多くの軍人に記憶が戻り、すでに大混乱に陥っているはずだ。

 それ以外でフィルだけが特別な理由をセレストは予想してみる。


「私と知り合いだから? それとも星獣使いだから? ……それならば、ドウェイン様も条件が揃っていますけれど、そんな様子はないですし……」


 一度目の世界でセレストととくに親しくしていたのはフィルとドウェインの二人だ。

 けれどドウェインにはおかしな言動は見られない。彼の性格からすると、記憶が戻って黙っているとは考えにくかった。

 フィルとドウェイン――どこが違うというのだろうか。


「星獣使いだからという可能性は高いだろうな。ドウェインと俺の決定的な差を考えると、君に対し特別な感情を抱いていたかどうか……じゃないのか? スピカと同調するくらい強い想いがあったから。そんな気がしている」


「と、く……べつ……」


 先ほどから、セレストは二人の関係を決定づける話題から逸れたくて仕方がないのに、フィルのほうがさらりととんでもない言葉を口にする。


「……あぁ、だが安心しろ。十八歳まで保護者でいてやる」


 フィルがセレストの前髪に触れた。

 彼は、セレストが星獣使いになってすぐ、頭を撫でるのをやめたはずだった。けれど今はそれを一時撤回したのか、前髪を弄んで悪い笑みを浮かべている。


 やがて露わになった額にちょんと唇が落とされた。

 セレストは目を見開き、なにも考えられなくなってしまった。理解できたのは、このままでは自分の心臓が爆ぜるということだけだった。


 ドクン、ドクン、という鼓動に続き、バタンという大きな音が響いた。


「フィィィルゥゥゥ……」


 突然開いた扉から、地響きのような叫びが聞こえた。

 声の主はもちろんマクシミリアンだった。


「げっ」


 フィルは焦った様子で急にセレストから距離を取る。


「フィィィィィルッ! おぬしというヤツはっ! どこまであの変態ムコに似たのだ。なぁにが、王命で断れなかった政略結婚だ!」


 骨折は治療してもらったようで、元気が有り余っている様子だ。

 フルーツの入ったバスケットを持っているから、それを届けるためにわざわざ来てくれたのだろう。


「待て、じいさん。……今、俺は彼女が大人になるまで保護者として振る舞うという宣言をしただけで……」


「声など聞こえておらん! おでこにチュッしか見えておらんぞぉぉぉ」


 マクシミリアンは部屋の隅にあるテーブルにバスケットを置いてから、ズンズンとフィルに詰め寄った。


「最悪だ……」


 普段のセレストならば、フィルの味方をしていただろう。

 けれど今だけはそんな気になれなかった。マクシミリアンにお説教をしてもらったほうがいいような気がしたのだ。


(フィル様が保護者をやめたら……)


 保護者をやめて、もうセレストにはかまわないという宣言でないことだけはよくわかっている。

 ふわふわして落ち着かない感覚がいつまでも残ったまま、セレストは星獣たちと一緒にフィルとマクシミリアンの争いを見守っていた。

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