5-5
セレストは灰色の世界に立っていた。
月も星もなく、風も吹かない。なにもないからどんな場所なのかもわからない。
静寂は穏やかな心地にさせてくれるもののはずなのに、無音だと恐ろしい。
『スピカ……どこ……?』
半身とも言える星獣の名を呼ぶが返事がない。
『フィル様……? レグルス……、スー……。誰か……』
しばらくさまよっていると、誰かがこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
軍服と似ているデザインの男装姿で、長い銀色の髪の女性だ。
『私……?』
それは十四歳のセレストではなかった。
ほんの少し背が高く、大人びている。そして無表情で感情が読み取りにくい過去のセレストだった。
十八歳の頃のセレストは自分が笑った姿を鏡で見たことがない。
鏡を見るときは大抵一人で、自身にほほえみかける必要などなかったのだ。
今は違う。新しい服を買ったとき、髪を結ってもらったとき、鏡を覗き込むと背後に誰かがいて、ほほえみかけてくれる。
そのおかげで、二度目の世界のセレストは自分の笑顔をよく知っていた。
『ねぇ……見て、あそこにヘーゼルダイン将軍がいらっしゃるわ』
もう一人のセレストが視線を動かした。
そこには何人かの人影があった。一人は軍服のフィルだった。セレストがヘーゼルダイン将軍と呼んでいた三十歳の頃の姿だ。
フィルの近くにはドウェインやマクシミリアン、そして顔がよくわからない女性がいる。フィルはその女性を愛おしそうに見つめ、ほほえんでいた。恋人か夫婦のようだった。
(これは、あの世界の先にあったかもしれない皆の姿……?)
セレストが知らないだけで、一度目の世界のフィルには恋人がいたかもしれない。そうでなくても時間の巻き戻りが起こらなければ、フィルはいずれ誰かを愛し、その人と家族になっていたかもしれない。
彼らを見ていられず、セレストは顔を背けた。するとその先に別の人影が浮かび上がる。
『フィル様! それに王太子殿下……』
今度は先ほどより若い、今のフィルだった。
血だらけでひざまずくフィルと、赤黒く汚れた剣を手にし歪んだ笑みを浮かべるジョザイアがそこにいた。
(……二度目の世界で、あるかもしれないフィル様の姿……)
フィルは王族には近づきたくないと言っていた。複雑な感情を抱いているけれど、この国で暮らす人々のために争いを起こしたくないのだろう。
けれどセレストを守るということは、王家――ジョザイアとの対決に行き着くのではないだろうか。
『ねぇ? ……小さなもう一人の私……』
十八歳のセレストは相変わらずの無表情だった。
今とは違う昔の自分が言葉を紡ぐ。
『ヘーゼルダイン将軍を巻き込まないで……』
これは、セレストの不安が見せる悪夢。そして警告なのかもしれない。
ハッ、とセレストが勢いよく目を覚ますと、最初にフィルと視線が合った。
彼は心配そうにセレストの顔を覗き込み、目尻のあたりにハンカチをあててくれた。それでセレストは自分が泣いていたのだと自覚した。
「うなされていたぞ。大丈夫か?」
「フィル様は、寝ていないと……」
戦闘がはじまったのは昼過ぎで、帰ってきたのは日が沈む前だった。
どれくらい眠っていたのかわからないが、もうとっくに夜になっていて、部屋の中には小さなランプが灯されていた。
セレストは半身を起こし、フィルの肩を押した。ベッドに戻ってもらおうと思ったのだ。
「俺はもう治った。それより休息を取れと言われていなかったのか? 起きたら君が椅子に座ったまま気絶していたから……ばかかと思った。そっちこそちゃんと寝ろ……」
彼はいつになく毒舌だった。
セレストは空いていたベッドに寝かされていたのだから、おそらくフィルに運ばせてしまったのだ。
もう治ったと主張しているがそんなはずはなく、病人に力仕事をさせたということになる。
「……うぅ、うっ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
フィルにいくら拭いてもらっても、セレストの瞳からは大粒の涙が溢れ出す。スピカとレグルス、そしてこっそり戻ってきたスーが不安そうにしていた。
「な……泣くな。……今のは心配ゆえの憤りであって、君を大切に思っているからこそ言っただけで……。セレスト?」
それくらい、セレストにだってわかっている。
フィルはいつだって自分よりもセレストを優先してしまう人だ。今のセレストは、それが恐ろしくてたまらなかった。
泣いているのは恐怖と後悔のせいだ。
「巻き込んでごめんなさい……。私のせいで、フィル様も、お祖父様たちも傷ついてしまいました。……本当に、本当に……私はっ!」
フィルは優しい人だから、今更セレストを手放すことなどしないとわかっていた。
わかっていてこんな弱音を吐くのはずるいのに、セレストにはもう本音を隠すことができなくなっていた。
「なにがセレストのせいだというんだ? 民を守るのは星獣使いの役目だろうに」
「でも……」
「でも、じゃない。解毒の術は効いていて、もう完全に治っている。……じいさんたちの具合は君が眠っているあいだに確認した。あの程度の怪我は傭兵団にとって大したことじゃない。どこに問題があるんだ? 君の願いはすべて俺が叶えた。これからもそうするよ」
励ましの言葉がセレストの胸に深く突き刺さる。
なんの迷いもなく願いを叶え続けると言い切る彼の未来をどうしても想像してしまった。
先ほど見たばかりの悪夢に出てきた姿が脳裏に焼きついて離れない。
「今日がよくてもそれはたまたまで……。私……私のせいでいつか誰かが死んでしまうかもしれない……。私の代わりに誰かが傷つくのなら……あのまま……」
あのまま、一度目の世界で死んでいればよかったと言いかけて、最後までは声にならなかった。その言葉は消滅寸前になるまで星神力を使ってセレストを救ったスピカを傷つけてしまう。
「あのまま? 君はなにを……」
「もしフィル様になにかあったら……私は……。助かりたいから安易にあなたを頼った自分自身が、今は大嫌い……!」
「君の知る未来と別の道を進むことが、そんなに怖いのか?」
「そうです……。だって、あれは……あれはっ!」
もうこれ以上、知っていることを話さないでいるのは無理だった。
セレストは何度もためらいながら、言葉を絞り出す。
「私、ずっと……嘘をついていたんです。あれは未来視なんかじゃありませんでした」
「セレスト、それは」
「私、……本当は死んでいたはずなんです! 未来視なんかじゃなく、だからスピカが小さくなって……。この世界で誰かが亡くなったら、それは私の身代わりで……」
感情が爆発し、まともな説明ができなかった。
誰かの選択によって、人の未来が変わるのは当然のことだ。他人の幸せと不幸せの因果など気にしていたら生きていけない。もしなんらかの方法で自分がより幸せな未来へたどり着く道がわかるのなら、進む権利は誰にだってある。
けれど未来を予測できる力と、時間の逆行で得た知識を行使することは全然違う。
一度目の世界で起こった喜びも悲しみも、予測ではなく、その人にとっての真実だったはずなのだ。人は選択を重ねて幸せをつかみ取る。それをねじ曲げる権利を、セレストは持っているのだろうか。
「落ち着いて、大丈夫だから。君の……いや、君たちの力は人を救うものだ。実際に多くの者の命を救ったじゃないか」
セレストの肩に手が置かれた。大きくて力強い、なんでも包み込んでくれる手だ。
フィルの声色はどこまでも優しい。未熟な保護対象を諭すような言葉をくれる。いつものセレストならば彼の言葉は絶対だ。
けれど、今は違う。セレストが一番恐れているのは、フィルの優しさ――その先にある彼の犠牲なのだから。
「いいえ、……大丈夫なんかじゃない! この世界で誰かを一人助けても、別の誰かを不幸にしたら……それこそ神様にでもなったみたい……っ、そんな権利はないんです。ごめんなさい……ごめんなさい……フィル様を不幸にしてしまう」
ヴェネッサを救っても、イクセタ領の魔獣被害で多くの人を救っても、一度目の世界で幸せに暮らしていたなんの罪もない人を一人でも傷つけたら、セレストのしていることが正義なのかわからなくなる。
それはまるで命の選別をしているかのようだった。
最初から言われていたのだ。
セレストの提案は、彼女自身にとっては最善の道であったけれど、フィルの幸せを保証するものではなかった。
一度目の世界、イクセタ領での魔獣被害でフィルが怪我をしなかったことは一緒に戦ったセレストが一番よくわかっていた。
もしこの先、セレストが現実をねじ曲げたせいでフィルが傷ついたら、セレストはその重さに耐えられない。
彼は少なくとも三十歳までは大きな怪我をせずに生きていけるはずだった。
爵位を得ていなくても、将軍にはなっていた。
セレストは彼に爵位を与えることはできたのかもしれないが、そもそも彼は地位や財産を欲していなかったのだ。
「俺は不幸になんてならない」
「それは……フィル様がなにも知らないから……この先のことを、知らないから言えるんです」
「いいや。……あの日のことはよく覚えている。君が十八歳の頃だ」
肩に置かれていた手が背中に回される。グッと引き寄せられるとなにも見えなくなった。
ただお日様のようなフィルのにおいがするだけになる。
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