5-4
森の中を歩きながら、セレストは約三十年前からはじまる昔話を黙って聞いていた。
小型犬に戻ったスーには、取り逃がした闇狼がいないか沼の付近まで偵察にいってもらっている。小さな脚を動かして先導役を務めるスピカに続き、二人は砦方面に向かっていた。
「俺はこのまま、穏やかに生きていきたい。……たとえ、手の届く範囲しか守ってやれない窮屈な世界でも……」
「フィル様……」
フィルは強いが、同時に優しい人でもある。
多くを望まず、穏やかな暮らしを求めているのはセレストにもよくわかっていた。
「だが、いつか俺の事情に君を巻き込む日が来るかもしれない……。それが少し恐ろしい。ちゃんと守ってやれるか、不安になることがある。今だって翼竜一匹を倒しただけでこんなに消耗して、まだまだ未熟だ……」
しっかり歩いているように見えるけれど、フィルの体はボロボロなのだろう。大きな怪我こそないものの、擦り傷はたくさんあるし、なにより彼を包む星神力が普段より弱々しい。
セレストも氷の防御壁と翼への攻撃、それから翼竜を倒したという安堵から、それまで無視していた疲労感が一気に押し寄せてきていて、同じような状態だ。
目的は達成できたが、二人ともひどい有様だった。
(でも、私のせいでフィル様の願いは叶わないかもしれない)
フィルはおそらく、王家との争いを望んでいない。
彼の事情のみを考えれば、秘密さえ守られていれば王家と対立する以外の道が残されている。
けれど、セレストのほうはどうだろうか。
十八歳のあの日、セレストを陥れたのはジョザイアだ。
セレストは、フィルとスーの真実を知ったからこそ、彼が望まない事態を自分が引き寄せる未来を想像してしまう。
「……フィル様、私は……」
離れるべきではないか――そんな言葉が出かかって、途中でやめた。
優しい彼は、セレストがそんな主張をしたら大丈夫だと言うに決まっているのだから。彼にたずねるのは卑怯だった。
セレストはそのまま黙って歩き続けた。行きはフィルが術を使って森の中を駆けてくれたためすぐにたどり着いたが、疲労困憊状態で歩くとかなりの距離だった。
あと少しで砦が見えてくるはずの場所までたどり着いたそのとき、先導していたスピカが振り返った。
「ピィッ!」
同時に、セレストの体に衝撃が走る。
セレストは地面に倒れ込みながら、フィルに強く押されたのだと知った。
「チッ! ……油断した」
セレストたちが通り過ぎたばかりの木に蛇がぶら下がっていた。
フィルが左腕を押さえ、その場にうずくまる。額から汗がにじんでいるし、血の気が失せていた。
「
灰蛇はかなり厄介な魔獣だった。戦闘力は闇狼と同じくらいだが気配を殺すのがうまいのだ。
一般的な魔獣は常に一定の瘴気を身にまとっているが、灰蛇は瘴気を体内に押しとどめ、攻撃に転ずる寸前まで魔獣特有の気配を悟らせない。
灰蛇に咬まれた者は、瘴気を含んだ毒で身動きが取れなくなる。この魔獣は動けなくなったものをゆっくり食らうのだ。
沼付近にこの魔獣が生息しているという情報はなかった。
それに一度目の世界の翼竜討伐で、セレストたちは灰蛇と戦ってはいないし、ほかの者が戦ったという報告も受けていなかった。
「ピッ! ピィィィ!」
スピカが氷の壁を築いて、二人を守ろうとしてくれている。
今、戦えるのはセレストだけだ。
「フィル様……よくもフィル様を……」
怒りがきっかけになり、星神力が体の中を駆け巡る。ドッ、と噴出して、気がつけば灰蛇が絡みついている木を丸ごと凍らせていた。
ボトッ、と音を立てて灰蛇が落下する。もう絶命しているとわかっていたがセレストはそれでも止まれず、氷に圧力を加えて粉砕した。
「セレスト! 冷静になれ。……もう十分だ」
フィルの言葉で我に返る。
怒りにまかせて無駄な術を使っているようでは、一流の術者とは言えない。それに、魔獣を弄ぶよりも先にやらればならないことがあった。
「……フィル様……ごめんなさい……ごめんなさい。戦いが終わったと思って、いいえ、敵の全容がわかっていると思って油断しました……」
「いい子だから、落ち着いて……大丈夫だ……。油断したのは俺も……くっ……」
落ち着いてと言われても、鼓動のうるささはどうにもならなかった。
それでもセレストは、息を切らしながらなにをするべきか思考を巡らす。
まずは灰蛇が一匹ではない可能性を考えて、スピカに周囲の警戒をお願いした。
次はフィルに対する応急処置だ。
癒やしや解毒の術が使える者は少なくて、セレストにはできない。砦まで戻れば救護部隊所属の術者がいる。ドウェインのような圧倒的な力は持っていなくても、きっとフィルを救ってくれるはずだった。
それまでに毒の巡りをできるだけ抑えておくために、傷より上の位置を布で縛る。
固定、浮遊の二つの術を応用すれば、セレストでも大人のフィルを運ぶことが可能だ。
セレストはフィルを肩で支えながら起こして、術の補助を使いながら走りはじめた。
星神力の枯渇が近く、気力だけで前へ進み続けている状態だった。
「ガウゥ!」
木々の隙間から砦の壁が見えはじめた頃、レグルスが来てくれた。
セレストはレグルスの背にフィルを乗せてから、すべての術を解除した。もう、体が限界でだんだんと視界が狭くなっていくような気がしていた。
「ピィ!」
「だ、大丈夫……だよ……」
セレストにはきっと気絶する権利などないのだ。二度目の世界で起こる一度目にはなかったすべての出来事に対し、責任を負う立場なのだから。
砦の中に入ると通路の両脇に多数の負傷者が座り込んでいる状態だった。彼らは軽傷なようで、セレストたちに気がつくと駆け寄ってきてくれた。
フィルが負傷しているのを知ると、救護室まで導いてくれる。
救護兵も駆けつけてきて、部屋へ通される。灰蛇の毒にやられたことを説明すれば、すぐに解毒の治療がはじまった。
ベッドに寝かされているフィルは額に汗をにじませて、苦しそうにしていたが、処置を受けるとだんだんと呼吸が穏やかになっていった。
「しっかり効いているようですから、心配いりません。……ほら、エインズワース少尉も手当てをなさってください」
「私は平気です……。汚れているだけで、擦り傷しかないからほかの方を優先してあげてください」
「わかりました。でしたら、お二人には休息できるお部屋をご用意いたしますのでそちらで休んでください。……顔色が悪いです。ご存じのこととは思いますが、星神力の回復には休息が必要ですよ」
救護室では重傷者から順番に治療を行っていて、次々と負傷者がやってくる。治療の終わった者は別室への移動が必要なのだ。フィルは担架に乗せられて個室へと運ばれることになった。
レグルスやスピカと一緒に廊下を歩いていると、近くの部屋から大声が聞こえた。
「情けない、腕の骨折は剣士の恥だぞ」
「ワシは一箇所だけだ。おぬしなんて、肋骨三本、……それに右脚までボキッといっておるではないか! それでよく説教などできるものよ」
「なんだとぉ!?」
「ちょっと! おじいさんたち、強がってないでちゃんと安静にしていてください。治療は行いましたけど、あなたたち重傷なんですよ!」
声の主はマクシミリアンと傭兵団の団員、それから救護兵だろう。
死者は出なかったようだが、怪我人の多さを目の当たりにしたセレストは、自分の選択が本当に正しかったのか疑問に思いはじめていた。
ベッドが二つ置かれた部屋に通される。フィルは担架からベッドに移動する際、少しだけ目を開けた。
「セレスト……大丈夫か……?」
「はい、私は……どこも……」
「そうか……よかった……」
彼はゆっくりと目を閉じると、また眠ってしまった。
やがてここまで送ってくれた救護兵がいなくなり、室内にはセレストとフィル、そして二体の星獣が残された。セレストはベッドの真横に椅子を持ってきて、そこでフィルを見守った。
レグルスとスピカも寄り添ってくれる。
(戦いは終わったんだ……。でも……私は……)
セレストの希望はすべて叶ったというのに、ひどい後悔の念に苛まれていた。
けれど、泣くことは許されない。
(……怖い、怖いよ……)
どうして彼に頼ってしまったのか。
セレストのこれまでの選択が、いつか一番大切な人を傷つけ、苦しめる。セレストは今になってようやく、それを現実に起こりうることだと実感した。
フィルは強いから、大丈夫――そんな思い込みで甘えすぎていた。
毛布から出ていたフィルの手をギュッと握る。彼の体温を確認して、彼が生きていることを感じていないと恐ろしくて仕方がなかった。
(フィル様……ごめんなさい……)
彼を起こさないように、心の中で謝罪するだけがセレストの精一杯だった。
そうしているうちに、セレストは目の前がぼんやりと薄暗くなっていくのを感じていた。貧血に似た症状は、星神力の消耗が原因だ。
一度目の世界ではよく無理をして、何度もこんな状態になっていた。
二度目の世界ではフィルがどこまでも過保護だったから、久しぶりの感覚だ。
「ピィ……」
セレストの中にあるこの負の感情は、きっとスピカを不安にさせている。
わかっていても抜け出せず、セレストはそのまま意識を失った。
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