4-1 翼竜
セレストの目の前に立っているのは、右目を眼帯で覆い隠した背の高い青年だった。
『セレスト……』
目が合うと、彼は柔らかい笑みを浮かべて手を広げた。飛び込んでこいと言っているのだ。
ここは不思議な世界だった。
周囲が輝いていて、なにがあるのかよくわからない。空間そのものからフィルの気配が漂っているような気がした。
『フィル様、大好き……。私とずっと一緒に……スピカも、レグルスも、スーも……皆で一緒に暮らすの。……十八歳を過ぎても、ずっとずっと』
一度目の世界でのセレストだったら絶対に言わなかった言葉がスラスラと出てくる。
なにせあの頃のセレストは、彼への特別な感情を恋心だとはっきりとは自覚していなかったのだから、言えるはずもない。
今のセレストにはわかる。セレストは一度目の世界でも彼を特別に思っていて、だからこそ一番に彼を頼ったのだ。
『フィル様……大好き……』
もう一度、以前には言えなかった言葉を繰り返す。夫婦なのだから、何度言っても許されるはずだった。
『そういうことは十八歳になってから言ってくれ。……正直、わりとつらい……』
『どうして……?』
言ってはいけない理由がないはず。セレストはフィルの背中に腕をまわし、より強く彼のぬくもりを求めた。
抱きついている感触がやたらともふもふしている。
フィルがこんなに毛深かったのが意外だったが、どれだけモサモサでもセレストはフィルが好きだった。
『レグルスみたい』
『ガウゥ』
声までレグルスになってしまった。
フィルにそんなお茶目な一面があることを意外に思った瞬間、急に世界が真っ白に染まった。
「セレスト」
セレストがうっすらと目を開けると、ふさふさの鬣のせいでなにも見えなかった。
「ガウ」
「セレスト、そろそろ起きろ。そんなに強く抱きついたらレグルスだって苦しいだろう?」
「ガウゥゥ……」
どうやら毎度お決まりの朝寝坊をして、レグルスが起こしてくれたという状況のようだった。
もふもふのフィルはまぼろしだった。
あれが夢だったと理解したのと同時に、セレストはとんでもないことをやらかした気がして、自分の体からサーッと血の気が引いていくのを感じた。
夢の終わり、夢の世界と現実の一部が繋がっていた気がする。普段は胸の内に秘めているつもりの感情が無防備に晒されていた。
なんとなく、現実世界で恥ずかしい本音が声になっていたような気がしたのだ。
「……あの、私……寝言なんて言っていませんよね?」
おそるおそるフィルに問いかける。
「あぁ、ムニャムニャとなにか言っていたがよく聞き取れなかった」
フィルはカーテンをタッセルで束ねていたため、セレストのほうを見ないままそうつぶやいた。
(あぁ……よかった……! どうせ子供の戯言など気にしないだろうけど、私にだってプライドはあるもの。……きっとフィル様の星神力の影響でこんな夢を見たのね……恥ずかしすぎる……)
フィルが術をかけてくれたおかげで、旅で蓄積されていた疲労感が完全に消えていた。
翼竜との戦いが予想されている日に万全の態勢で望めるのは喜ばしい。
かつてないほど快調なのにどこか落ち着かないのは、まだセレストの中にフィルから流れ込んだ星神力が残っているからかもしれない。
「レグルス……」
そのせいで平静ではいられないセレストは、きょとんとした様子でセレストのことを眺めていたレグルスを再び強く抱きしめた。
「ガゥ?」
「助けてレグルス……」
「ガウゥ……」
賢いライオンが困惑しているのがよくわかる。
「ピッ、ピィィ! ピィィ!」
すると、枕元にいたスピカがセレストによじ登りながら必死になにかを訴えはじめた。
「あぁ、ごめんね……。妬けちゃうよね……?」
セレストは慌ててレグルスから離れた。
スピカはベッドの上にごろんと寝転がり、お腹を見せる。短い手足を精一杯広げて、「撫でろ、撫でろ」と主張している。
「スピカ……今日は頑張ろうね?」
セレストは柔らかい腹部をくすぐりながら、スピカに愛情を伝えた。
しばらくスピカと戯れてから顔を洗い、髪を整えて着替えを済ます。戦闘になると予想できるので、今日のセレストは動きやすい男装だ。
星獣の実体化を解いてからフィルと一緒に宿の食堂へ向かう。
傭兵団の男たちは朝からすこぶる元気で、見ているだけで胃もたれしそうな量の朝食をたいらげていた。
なぜか上半身は裸で、肩にタオルをかけた格好だ。おまけにしっとりと汗をかいている。
「お祖父様、皆さん。おはようございます」
「おぉ、セレスト殿。おはよう! よく眠れたか?」
「はい」
本当は、傭兵団の宴会がうるさすぎて眠れそうになかったのだが、フィルが入眠のための術を使ってくれたので、マクシミリアンたちに文句は言わないセレストだった。
「うむ、寝る子は育つというからな。よいことだ……」
マクシミリアンの隣の席が空いていたので、セレストはなんとなくそこへ座った。
あとから二人ぶんの食事が載ったトレイを持ったフィルがやってくる。するとものすごく不機嫌になってしまった。
「セレストの前だぞ! 頼むから服くらい着てくれ……。というか存在そのものが暑苦しいな」
そう言いながら、彼はセレストの隣に腰を下ろす。
「なにを。今日の砦訪問のために朝のうぉーみんぐあっぷをしていたワシらを否定するつもりか?」
「皆さん早起きなんですね! 毎朝欠かさず鍛錬すれば、私ももっと丈夫な身体になれるのでしょうか?」
セレストは術者だが、術を極めるだけでは一流の軍人にはなれない。
軍で行われる模擬戦闘などでも、もっと俊敏な動きができれば戦いが楽になると感じたことが何度もある。
実際、クロフトと戦ったときなどは彼の身体能力が高いせいで手こずっていた。
とくに実戦――魔獣との戦いになれば、星神力至上主義ではなくなる。
マクシミリアンたちのように朝から鍛錬に励めば、もっと強くなれるのだろうか。
「そうじゃな。ならば明日からセレスト殿も朝の鍛錬に参加するといい。……
マクシミリアンが白い歯を見せて笑い、丸太のような腕を折り曲げ力こぶを作ってみせた。
なんとなく、義理の家族として親しくなるためには彼の力こぶに触れたほうがいいとセレストは感じた。
「では、ちょっとだけ……」
フィルが軟弱だとは思わないセレストだが、セレストの太ももよりもずっと太いマクシミリアンの腕には興味をそそられる。おそるおそる手を伸ばし、ピクピクと動く力こぶに触れた。
「どうじゃ? 筋肉はな……柔らかいものなんだぞ。こうやって……フンッ! と気合いを込めれば矢すらも弾く鎧となる。フィルと比べて五割増しの筋肉だ」
「矢を弾くなんて、すごい……」
力を入れると盛り上がる筋肉は確かに鋼のように硬かった。
同じ人間とは思えない強靱な肉体を目の当たりにして、セレストはただ驚いた。
「さすがに矢は弾かないし、いちいち俺と張り合うな」
すかさずフィルが指摘する。マクシミリアンがあまりにも普通の人とは違っているせいで信じかけたセレストだが、さすがに誇張だったようだ。
「フン、軟弱者のくせに。もしおぬしの体に矢が刺さるのならば、鍛錬が足りないからだ」
フィルが軟弱者というのは一般的な基準からすればありえない。
たしかにマクシミリアンに比べたら筋肉の量は少ないかもしれないが、そのぶん俊敏さがある。星神力、剣技、機動力、冷静な判断力――すべてのバランスが完璧に整っているのがフィルだとセレストは思っていた。
「ほら、セレスト。……じいさんの筋肉自慢に付き合ってないで、早く食事にしよう」
フィルはセレストの腕を掴むと、マクシミリアンから引き剥がし、濡れた手拭きでゴシゴシと手を清めはじめた。
これではまるでマクシミリアンが汚いもののようだ。
「よし、これでいいだろう。ほら、紅茶に砂糖を入れておいてやる」
「もうっ! 人前で過保護はやめてください。……恥ずかしいです」
フィルに悪びれる様子はなく、小さく笑ってごまかしてからパンを食べはじめた。
こういうとき、セレストは一度目の世界での彼を思い出す。
今ほどではないにしても、フィルとはよく行動を共にしていた。ドウェインと三人で食事をしたことだって何度もある。
師弟として、年下のセレストに対してはやや世話焼き体質だったのだが、ここまでではなかった。
精神的にはむしろ年齢差が縮まっているはずなのに、フィルは一度目の世界よりもセレストを子供扱いしている。
くすぐったいのと同時に、焦りも覚えた。
できるだけ早く追いつきたいという気持ちは日に日に強くなっている。
(でも今日だけは、戦いに集中しなければ)
セレストはもたれない程度にしっかりと朝食を取ってから湖まで行って、少しだけフィルと一緒に身体を動かした。
昼は軽めに済ませて約束の時間になってから、マクシミリアンたちと一緒に砦へ向かった。
これから戦いがはじまるとは思えないほど、空は晴れ、風は穏やかだった。
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