2-5
侯爵邸に戻ったセレストは、伯父の怒りに触れるのではないかと不安だった。けれどそれは杞憂に終わった。フィルがセレストの身の安全が脅かされたら許さないということを暗に匂わせたからだ。
だからいつもどおり存在しないもののように扱われるだけで、暴力などを振るわれることはなかったし、最低限の食事もできた。
ミュリエルは「野蛮な平民男と結婚するなんてかわいそう」と言いながら笑っていたが、セレストは気にしなかった。
一度目の人生でもフィルは誠実で格好よく、尊敬できる素晴らしい人だった。そんな人と一緒にいられるのだからこれほどの幸福はない。
この結婚で不安な部分は、フィルに負担をかけてしまうことだけだ。
二日後、フィルは侯爵邸を訪れて、伯父と結婚についての話し合いをした。
この国では、女性側の家が持参金を持っていくのが一般的だが、侯爵家側はエインズワース伯爵位と所領がそれにあたると言い張って、持参金なしでの婚姻を進めるつもりらしい。
断絶した家の爵位や領地は、国の所有物であるため伯父の主張はおかしいのだが、フィルは了承してしまった。
また、歳の離れすぎた夫婦は一般的によい印象を持たれないという理由で、結婚式も行わないし、勝手にやっても侯爵家は出席しないと宣言した。
フィルはそのすべてを了承し、代わりに早期の婚姻成立を望んだ。
それについても伯父の認識は「褒賞に目が眩んだ庶民」とあからさまに見下した態度だった。
「君の養い親は予想以上にひどいな……。そもそもその一般的によくない縁談を勝手に進めたのは誰なのか! 恥知らずにもほどがある」
二人きりになった途端、フィルは不満を口にした。
「伯父が失礼をして申し訳ありません」
「いや、俺自身が蔑まれるのには慣れているし、気にしない。……十歳の子の扱いに憤りを覚えているんだ」
フィルは動物と子供にはとくに優しい人だ。だから自分が蔑ろにされたことよりも、侯爵家におけるセレストの扱いに対し強い怒りを感じたのだろう。
「私も慣れていますし、結婚式なんてやらなくてよかったです。準備に時間がかかって結婚が遅くなると危険です。それに、私にはウェディングドレスなんて似合わないですから」
ドレスを仕立てて、ゲストに招待状を送り、おもてなしの内容を考えて、――結婚式とパーティーを行うのであれば、どれだけ急いでも数ヶ月はかかってしまう。しかも十歳の小娘とたくましい青年軍人の結婚だ。伯父の言うように、印象はよくない。
「そういうのに憧れはないのか? 普通あるだろう」
「キラキラしたものは好きですよ! でも、ドレスを着て結婚式をしたいとはあんまり……思わないです……」
これは半分本当で半分嘘だった。セレストはできれば結婚式をしたいと思っていたが、それは今ではない。
当たり前だが、フィルは愛する人ではなく尊敬している人だ。釣り合わない二人が神の前で誓いなど立てても、虚しいだけの気がした。
「そうか、ならいいが」
フィルは訝しげな顔をしたが、それ以上は追及してこなかった。
それからフィルはかなり頑張ってくれたようで、二週間ほどで屋敷を手に入れてセレストを呼び寄せてくれた。同時に婚姻の手続きを済ませ、二人は書類上の夫婦になった。
「ほら、屋敷の中を案内してやろう」
「お願いします。ヘーゼルダイン様」
元々フィルの家があったのは賑やかな七番街の付近だった。新居はそこよりも商業地区から離れるが、現在彼が所属している軍の司令部に近い場所だ。
レンガ作りの可愛らしい印象の屋敷で、ここがエインズワース伯爵家のタウンハウスとなる。
「呼び方がおかしい」
これから、フィルはエインズワース伯爵、またはエインズワース将軍と呼ばれるはずだった。
ただ、彼の指摘は爵位名で呼べという意図ではないはずだ。
セレストの名前もすでにセレスト・エインズワースに変わっている。自分の夫となった人を姓で呼ぶのはおかしいという意味に違いない。
「あの……旦那様……?」
おずおずとふさわしい呼称を口にする。
「いや、それはなんだか俺が悪い人間になったようで困る。あと十年待ってくれ」
フィルはポリポリと頬を掻く。
姓はだめ、「旦那様」もだめ、だったら名前で呼ぶしかなくなる。
「では、……フィル様」
セレストは一度目の世界で、彼をずっと姓で呼んでいた。なんだか慣れず、照れてしまう。
「それでいい。……今日からここが俺と君の家だ。さあ、行こう。セレスト」
やり直しの人生で、フィルがセレストの名前を呼んだのはこれがはじめてだ。出会った時は「令嬢」と呼んでいたし、普段は「君」しか言わない。
なんだか急に距離が近づいた気がしてセレストは嬉しかった。
「使用人はドウェインに紹介してもらって、一週間ほどで来てくれる予定だからそれまで不便をかけるかもしれない」
「問題ありません。私が頑張りますから!」
フィルが将軍として仕事をしているのに対して、まだ子供のセレストにはするべきことがなにもない。だったら家事はセレストの担当だ。冷遇されていたとはいえ、侯爵令嬢だったセレストは家事には自信がない。
けれどとにかくやってみなければと己を鼓舞した。
「それは頼もしいが無理はするなよ」
「はい!」
大きな扉を開けると、木張りのエントランスホールがあった。絵画や花など、飾るものが一つも置かれていないせいでガランとしている。
暖炉のあるリビングには小さなサンルームがついていて、明るい。隣にあるダイニングには四人掛けのテーブルが置かれている。
そのほか一階にはキッチンや風呂、使用人用の部屋があった。
二階は私室として使える部屋が三つある。一番大きな部屋はもちろん屋敷の主人であるフィルの部屋だ。少しだけ覗かせてもらうと、まだ荷ほどきが終わっていないようで、散らかっていた。
セレストの部屋はその隣だった。要望どおりバルコニーがあってテーブルと椅子がちょこんと置かれている。
女の子が喜びそうな白い家具で統一されていて、明るくてかなり可愛らしい印象だ。
パッと見ただけでも、フィルは自分の私室よりもセレストの部屋を調えることを優先してくれたのだと伝わった。
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