2-4
ジョザイアはセレストたちに気がつくと、手を振って近づいてきた。
(王太子殿下……っ!)
セレストの中に恐ろしい記憶が蘇ってくる。彼女の感覚ではたった二日前に起きた惨劇だ。異常な気配をまとうスピカ、笑っているミュリエルとジョザイアの姿、全身の痛みと苦しみ――味わった絶望まで忘れるには早すぎた。
フィルがジョザイアに敬礼をする。
セレストはハッとなって、慌てて淑女の礼をした。
今のジョザイアはまだセレストの敵ではないのかもしれないが、できればこのまま目を合わさずにいたかった。
「やあ、奇遇だね。大佐、ではなく……将軍。それから、ゴールディング侯爵令嬢ははじめましてになるのかな?」
「これは、王太子殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
「お初にお目にかかります」
「楽にしてくれていいよ」
セレストは顔を上げた。心臓の音がうるさくて不快だ。先ほどまで少し寒いくらいだったのに、異様な緊張のせいで今は汗ばんでいる。
十六歳のジョザイアは波打つ金髪にグリーンの瞳をした絵に描いたような王子様だ。
誰にでも人当たりがよく、現役では最高位の星獣を従えている優秀な人物だ。よい評判しか聞かないし、セレストもあの事件が起こる直前まで尊敬できる立派な次期国王だと思っていた。
けれど今は、その笑みがただ怖い。
ミュリエルの悪意が見えやすいのに対し、ジョザイアはわかりづらい。だから恨みや憎しみよりも恐ろしさが勝る。
「散策だろうか?」
「はい。今日、はじめて顔を合わせましたから今後について相談をしながら、バラを眺めておりました」
フィルが代表して答えてくれる。
「そう。しかし驚いた。将軍があの条件の褒賞を受けるとはね」
そう言いながら、ジョザイアはセレストを一瞥した。
いくら敵対するのは今ではないと言い聞かせてもどうにもならず、セレストの心は恐怖に支配されていた。脚がわずかに震え、立っているのがつらい。無意識にフィルのマントを掴んでいた。
「国王陛下の決定を、私個人が理由なく踏みにじってよいはずがございませんから」
あくまでこの褒賞の内容は、国王が決めたものだとフィルは主張した。
「爵位がほしかったのか?」
フィルは迷わず首を横に振る。
「爵位を得ても、血筋や人脈を得たわけではありませんし、私の立場が強化されるとは思えません。守らなければならないものも増えるでしょう」
「そうだろうね」
「ですが、後悔はしておりません。将軍職をいただいたからこそ、守れるものがありますから」
「あなたのそういう正直なところ、私は結構気に入っているんだ。今回のやり方、私は好まないから大人たちの思惑がはずれてせいせいした。……これからも同じ星獣使いとしてよろしく頼む」
あの牢獄での出来事が嘘みたいに、ジョザイアからは少しの悪意も感じられない。むしろ、国王の意図がわかっていて、実直なフィルを賞賛しているように見えた。
「もったいないお言葉です」
「侯爵令嬢も。こんなことになって心配していたのだけれど、すぐに打ち解けられたみたいでよかった」
「はい……」
「本当は侯爵令嬢が無理矢理従わされているのなら、婚姻だけは取り消すように進言しようと思っていたんだが……」
セレストは背筋が凍るような心地だった。ジョザイアの言葉は昨日からのセレストの努力をすべて無にするものだった。
(……落ち着いて、大丈夫。……きっと大丈夫……)
自分に言い聞かせ、セレストはジョザイアの申し出を断るための言葉を探す。
「私は、エインズワース伯爵家の再興が叶うのがとても嬉しいです。ヘーゼルダイン様とははじめてお会いしましたが、お優しい方だとすぐにわかりました」
無理矢理言わされていると誤解されたら事態が悪化する。セレストはにっこりとほほえんで無邪気を装った。
「そう。婚約者同士が一緒に過ごすひとときに第三者が割り込むのはよくないね……それでは失礼する」
ジョザイアは手を振って二人のそばから離れていく。
彼の姿が見えなくなると、安堵で体から力が抜けてしまい、セレストは転ばないようにより強くマントを握った。
「ヘーゼルダイン様……」
「大丈夫だ、きっと」
「私との結婚だけ取り消しになったりしませんよね? ……爵位や領地とは違って、私との結婚はあなたへのご褒美にはならないから、取り消しても誰も不誠実だとは思わない。もし、それだけ見直しになったら……私は……っ! また同じように……」
不安が次から次へと言葉になった。
とにかく否定してもらわないとセレストは安心できない。このまま侯爵家に残り、十一歳を迎えてしまったら侯爵家は絶対に義娘を手放さない。
「こんな言い方をしていいかわからないが、君は侯爵家の養女で侯爵夫妻との関係は良好とは言い難いんだろう? 今の時点で侯爵家が君を欲する理由はないと思っている」
マントを握っていた手の上にフィルの手が重なった。わずかな力を込めてセレストの小さな手はマントから引き離された。せっかくの礼装にしわができてしまったことを咎められるのだろうかと思ったらそうではなかった。
フィルはそのまま両手でセレストの手を包み込んだ。それで少しだけ冷静になれる。
「……そうですね、伯父様が私にこだわる理由はありません。今はまだ」
セレストは侯爵家の厄介者だ。伯父夫婦は、理由があれば義務で引き取っただけの姪など追い出したいと考えているだろう。
「もし俺が、それなりに力のある家の女性と結婚したらどうなると思う?」
セレストは想像してみた。貴族にとって婚姻とは人脈を築き、立場を強化するための手段だ。
「ええっと……。結婚相手の実家があなたを助けてくれるはずです。伯爵として――貴族社会での立場が強くなると思います」
「そうだ。だったら、俺にできるだけ力を持たせたくない者がこの結婚を邪魔するはずがないだろう?」
エインズワース伯爵家は断絶しているから、貴族の社会で生きるにあたって、セレストはフィルの助けにはならない。フィルが力を得ることをよしとしない者たちにとって、セレストは都合のいい結婚相手だ。
ジョザイアは本当に善意で提案してくれただけ。
国王や貴族たちには二人の結婚をやめさせる理由がない。
「安心しました……と言ったらおかしいですよね。ごめんなさい、ヘーゼルダイン様には苦労ばかりかけてしまいそうです。でも、私……頑張りますから! いつかお役に立ってみせます」
「そんなに責任を感じることはない。そろそろ帰ろう」
フィルはそう言ってから予告なくセレストを抱き上げた。
「あの! 私……」
「今日はよく頑張ったな。えらいぞ」
これは将来自分を殺そうとするかもしれない相手に出会っても取り乱さずにいられたセレストへのご褒美なのだろうか。
心は十八歳のはずだが、フィルが優しくしてくれるのなら、子供扱いも悪くないだなどと、セレストはついずるいことを考えてしまった。
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